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今が、どこかにつながっていくんだよ、きっと。

日々、ひたすらに毎日を過ごし、毎日を更新していく中で、書くこと(ネタ)は星の数ほどあるし、それはその時に書かないと、感情の上下動とともに、忘れ去られてしまう。

noteを毎日書くようになって、よーくわかった。だからこそ毎日続いているというのも、ある。

だけど今日は、日々書き連ねている、「雑多だけど、たいせつなこと」は、一旦横に置いて忘れよう。

あとで思い出したら、それはそれでいいけど。

KIRINとnoteのコラボ企画『 #社会人1年目の私へ

この企画、気になって、たまに眺めては、『あの頃の自分、どうだったかなぁ〜』って考えてた。

思い浮かんできた姿は、よくもわるくも、今とそんなに変わらなかったけど、それはそれで、ね。

せっかくの機会だし、自分が『新しい挑戦』をする前に、社会人として一歩目を踏み出した“あの頃の今頃”のことについて書いておきたい。

『社会人1年目の私 』の、メモを残すつもりで。

***

2008年の6月の今頃は、新人研修が終わり、全国各地に配属される時期。

大手証券会社に入社した僕は、全国転勤おかまいなしの、
どこでも行ってやろうじゃないか精神だった。

『全営業員、第二希望までの希望地にします。』と言われ配布された『配属希望のフォーム』。

あろうことか僕は、

1、『関東』
2、『東日本』

と書いた。(当時は、わりと本気でそんな感じだった。)

これが何を意味していたか?

今、“人事”みたいな仕事をしているとよくわかる。


『会社にとって、やりやすい人。』

以上だ。


そうして僕は、見事ピカピカの『第二希望・東日本』である、

東北・岩手の『盛岡支店』へと配属になる。

東北・岩手から上京して、さらに証券会社に入るような人に、
わざわざ地元で仕事をしたいような人はいないだろう。

地元以外の人なら、言わずもがなだ。

つまり、当時300名ほど(もっとか?)いた新卒営業員の中で、
『地方支店』の人気は薄く、おそらく穴埋め人事だったに違いない。

これは、余談だけど、当時付き合っていた人とは、『遠距離』となり、
向こう1年くらいはお互いに頑張ったものの、ゆくゆくお別れすることになった。それだけが原因じゃないかもだけど、できるもんならするもんじゃないね、遠距離は。

ちーん。

***

仕事の姿勢のこと、少し。

僕は、今でもそうなんだけど、仕事(“指示された作業”も含めて)について、『意味を考えて、意義を問う』クセがある。

一見、大切なように見えるけど、それにも、良し悪しが、ある。

営業員に対する、『会社の指示』なんて、
『売ってこい』とか『イエスかハイと言え』なので、
そう言う意味では、全く会社の意向には沿わない営業員だったと思う。

『めんどくせぇヤツだな』

口には出して言われたことはないけど、
きっとそうだったんじゃないかな。

でもまぁなんとか、入社当初から思い描いていた、
『3年』という期間、全く無理なく“石の上”にいることができた。

営業成績は、ずば抜けてイイわけではなかったし、
できなすぎると言う訳でもなかった。
『中の中』くらいだったけど、仕事は楽しかった。

では、どうしてずば抜けて売ることができなかったのか?

それは今になって、自分の『モノゴト』への姿勢を見つめてみるとよくわかる。『商品性の良し悪し』ではなく、自分が『コレイイ!』と思ったもの以外は全く関心を持てないし、よもや人に勧めることなんてしない。

『営業員』にも大きく2種類の人間がいて、
『数字達成』を至上命題に会社貢献に動ける人と、
『やってることや、その相手』に真面目な人。

僕は圧倒的に後者だった。どっちだっていいと思う。
会社というエコシステムの中では、
どう考えても僕は『メシを食わせてもらっていた』方だったと思う。
(今でも、それはあんまり変わってない気がする笑)

***

『大手証券会社』という、ブランド。

『○○証券株式会社』という名刺。
毎日、名刺ケースがパンパンになるくらい携えて、新規営業に走り回っていた。僕は、『新規』が好きだった。

『仕事』という名目で、
地元の大きな会社の社長さんとか、政治家さん、
資産家のおじいちゃん、飲食店のオーナーさんなんかとお友達になるのに、
僕にとっても、相手方にとっても、大きな『安心材料』だったみたいだ。

もともと、仕事と遊びの境目はあんまりなく、『交友関係』として一括りにしてしまうことが今でもよくある。
そんな自分にとっては、ビジネス上の『ドライ』な関係を超えて、
平日、休日関係なく『公私混合』で、心で付き合う『ローカルな人間関係』は肌に合っていたようだ。

休みの日に車を出しては、山にハイキングに行ったり、温泉に行ったりすることもよくあった。『仕事をしている』という感覚すらなかった。

たまたま偶然、赴任となった『盛岡』だったけど、
この3年間で、盛岡のことも大好きになったし、
今では『第二の故郷』だと思っている。

また今年も、“友達”に会いに行こうと思ってる。

今がまさにそうなんだけど、『自分のやりたい道(=珈琲の道)』が決まると、それだけに突き進むようになる。
人生の中で、そういう時期も必要だし、大切だと思うんだけど、
世界は、わりともっとずっと広いと思うし、1人が一生のうちに経験できることなんて限られている。

『自分の意図しない道』に放り込まれること、社会のジェットコースターに乗り込むって意味では、社会人1年目を送れたことに、僕はわりと感謝すらしているくらいだ。

***

辞めるきっかけ。

そうして、4年目を迎える直前の3月、『3.11』が起きた。

まさにその日は、『宮城県・気仙沼』のお客さんを訪問している最中の出来事だった。月一くらいで楽しみにしていた、三陸沿岸部のドライブ営業だった。

『カルビー』という会社が、IPOで新規上場したまさにその日だった。
朝、営業車を止めて、お客さんと株の話をしたのをすごく鮮明に覚えている。

その後、1年間の地元会津での『充電期間』を経て、僕は楽天に入社することになる。復興支援の仕事をして、地元愛を爆発させていく4年間。

そこからの、今。

この辺は、書ききれないからまたの機会にしよう。

***

この10年ほどの社会人生活でわかったこと。

『自分で選んだ仕事は、たのしい。』ってことと、
『偶然、進まされた寄り道も、たのしい。』ってこと。

生きていると、すごく嫌になったり、周りの人が信じられなくなったり、なんでこんなことしてんのかな?って、思うこともたくさんある。

常に輝いている人なんて、いない。

いたとしても、たぶん僕は仲良しになれない。


ジェットコースターのように、上がったり下がったり、その時感じたことは、間違いじゃないから。


『君は君のままで、いいと思うよ。』って、

あの頃の自分にそっと教えてあげたい。

七転び 浮き沈み up&down 何べんだって やってんだ テンパッてんなって 合点だ 1000%の確率で未来は 自由な時代さ だって太陽が 皆の相棒だぜ そう会場は 笑い声が響き渡る どんな雨も今日は虹にかわる
直に分かる 君にはまず 楽しむ権利と楽しめる元気 備わってるぜ両方とも 幸せの国へようこそ

ぼくも誰かの応援をしようと思います!