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少年バットは現れない

自分の人生を振り返ってみると、理不尽に人のせいにして、問題の解決を強行したことが何回かある。
自己の抱える問題が、画期的に解決されることは稀で、ゆっくりと時間をかけてなされることが多い。もし解決を強行しようとするならば、「あいつのせいで」と他人に問題の原因をなすりつけるしかない。しかもこれは根本的な解決につながることは少なく、結局再び問題と対峙せざるをえなくなる。

今敏監督の『妄想代理人』(2004年)では、この「画期的に解決されることは稀」という現実の中で、自身の悩みによって身動きがとれなくなった人間たちが登場する。彼らは一同に「誰か助けてくれー!」と虚空に向かって叫ぶ。するとこの叫びに呼応する形で、帽子を被り、ローラースケートを履いた少年が、金属バットで「追い詰められた人間」を襲うのだ。襲われた人間たちは、深い傷を負うことなく、むしろ清々しい表情を見せて、社会生活に復帰していくことになる。画期的な解決が、少年バットの手によってなされたわけだ。

人が抱く悩みは、自分自身の怠惰によって生じている場合もあれば、家庭環境や友人関係など、環境要因によって生じるケースもある。そのほとんどは、この二つの要因のグラデーションによって形成されていると言っていいだろう。
『妄想代理人』の登場人物についても、彼らが抱える悩みの原因を、一概に「怠惰か環境か」で断定することはできない。よって、たった一つのアクションで問題が解決することはないのだ。これが現実である。
少年バットに救いを求めることは、一種の「現実逃避」の象徴として描かれている。発端は、主人公の女性・鷺月子の少女時代の苦い過去にあった。愛犬との散歩中、腹痛に襲われた月子は、不注意にも手綱を離してしまう。すると放たれた子犬は、道路を横断しようとしてトラックに轢き殺されてしまった。この事実を受け止めきれなかった月子は、「すべてはあいつのせいだ」と少年バットという架空の存在をつくりあげて、自分の不注意から目を逸らすのである。
『妄想代理人』は、鷺月子がこの過去と正面から向き合うのを決意することをもって、物語を終える。少年バットは人々の前に現れなくなり、「画期的に解決されることは稀」という現実が再び戻ってくる(1)。私たちに示されるのは、できるかぎりこの社会と「前向き」に向き合っていくしかないという現実だった。

【注】
(1)今敏の特集が組まれた『ユリイカ』(第52巻第9号)では、少年バットが消え、再び戻ってきた現実について。それが作品内でどのように描かれているかを指摘した小松祐美による論稿がある。小松は、少年バットが現われなくなり「復興した」として映し出される街のカットが、どれも第一話の冒頭の街のシーンと同じであることを指摘している(P.221~222)。
(論稿⇒「虚実混交をアニメ的に描くこと 『妄想代理人』における物語的な虚実とアニメ存在論的な虚実」)


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