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暴力を直視する

スタンリー・キューブリック監督『時計じかけのオレンジ』は、その他の監督作品がそうであったように、様々な評価・批判が巻き起こった作品だった。この映画が英国で上映された際には、「若者の暴力行為を助長する映画だ」として、殺害予告を含めた誹謗中傷が、監督とその家族のもとに襲い掛かった。キューブリックの子供たちは、学校に通うことさえ困難になるような状況になる。結果として、興行的にはヒットを飛ばしていた『時計じかけのオレンジ』を上映中止にする決断を下すことになった。

「道徳的に正しいこと"しか"できなくなること」と「道徳的に正しいことを、自分の意思で選択すること」の間には、大きな違いが存在する、という主張が、この映画の登場人物(刑務所に通う教誨師)から語られる。その意味は、人間の本質とは、あらゆる行為を「自分の意思で選択できる」ところにあるということである。つまり、たとえ側から見て正しいことを行なっていたとしても、それが強制的に選ばざろうえなくなっているのだとしたら、それは人間のもつ「人間らしさ」を奪っていることになる、という主張である。
この主張には頷ける部分もある。しかし、これを達成できるのは、前提として、自分のみならず他者の「自分の意思で選択できる」状況を尊重できる場合に限られる。自分の意思で行動した結果、他者から自由を奪ってしまっては元も子もない。
この前提を共有するためには、自分の行動を客観視できる能力が必要である。自分と酷似した人間が、眼前にあらわれた場合、それに迷惑をかけられることはないか。そこで「御免被る」という感想が頭を過ぎるならば、自分の在り方に変更が必要だということになる。

『時計じかけのオレンジ』のみならず、多くの映像作品は、被害者の立場及び加害者の立場を追体験させてくれる。さらに、その追体験によって、私たちは罰を受けることはない。
映画内では、あらゆる暴力行為が再現される(1)。もちろんそれは「フィクション」なのだが、それを「フィクション」だと感じさせないように試行錯誤するのが映画の醍醐味である。私たちはその「フィクション」性を頭の片隅に留めておくことによって、はじめて一種の娯楽として、暴力的な映像作品を受容することが可能になるのだ。

一方、映像作品の中には、実際の出来事をそのまま記録したものも存在する。そこには、現実の被害者と加害者が映し出され、滴る血も叫び声も本物である。
『時計じかけのオレンジ』においては、その映像が、主人公(アレックス・デラージ)の精神改造(2)に使われる。機器によって瞬きを不可能にし、常時暴力的な映像を直視させることによって、自分がこれまでに行ってきた行為を客観視させ、後悔と絶望の底に叩き込むのである。
映画鑑賞者が、この場面から味わわされるムカツキ感は激しいものがある。この場面にいたるまでに、散々主人公たちによる暴力行為を見せられるにもかかわらず、である。
主人公に課せられる「拘束されて映像を見る」という体験は、私たちが「映画館」という空間で体験していることと似ているとも言える。もちろん、瞬きの自由は確保できているが。
現代社会の私たちは、様々なネット配信サービスを享受することによって、映画館という空間に頼らない「映画」鑑賞の術を手に入れた。そのことがもつ意味を、肯定・否定の両面から評価していく必要がある。
ある意味で『時計じかけのオレンジ』は、監督キューブリックの映像論(映画論)として、受け止めることもできるだろう。


【注】
(1)スタンリー・キューブリックは映画における「暴力描写」について以下のように語っている。

「映画の暴力描写は様式化されている。それは本の場合でも同様だが。ただ私の場合の問題は、文章でなくフィルムの特性を生かして様式化された暴力描写に取り組むということだ。」(『ムービーマスターズ スタンリー・キューブリック』キネマ旬報社、P36)



(2)映画内でこの精神改造は「ルドヴィコ療法」と呼ばれている。その詳細は以下のようなものである。


「ルドヴィコ療法とは、神経に作用する薬剤を注射しておいた患者に残虐非道流血無惨な描写だらけのフィルムを強制的に見せることをくりかえす。まぶたは金属のクリップで押し広げられ、頭は固定され身体はストレイト・ジャケットで動かせなくなっているから患者は目をつぶったり目をそらしたりできない。薬剤の効果で患者は残虐場面を見ると吐気を催し耐えられなくなる。そしてセックスと暴力の衝動が起きると不快感に襲われあげくは気絶してしまう、社会に害をなさない人間に改造されて、一丁あがりとなるわけだ。」(『ムービーマスターズ スタンリー・キューブリック』キネマ旬報社、P36)


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