intermezzo(1640字)

もしかしたら、ここは彼の屋敷だったんじゃないかと思う。いや、過去形にするのはおかしいか。彼は今も、ここに棲みついているんだから。
 

たしかにここは、あちこちが崩れていて、住処というには荒廃としている。普通の人間なら、まず住むことは出来ない。でも、彼は普通じゃないから問題ない。


敷地内のやせ細った植木にもたれかかっていると、ふいに目まいがした。そのとき、私はもう地面の上に屈み込んでいる。


掌で下生えの冷たさを感じていると、ぽたり、ぽたりと眼前の地面が赤く染まった。私は思わずほくそ笑む。不自然に出てきた鼻血は、彼が現れる前兆だから。そして、背後に待ち望んでいた気配。
 

けれど、私は彼をふり返らない。なぜなら、町の人達が口を揃えてこう言うからだ。


『ソレを、決して目にしてはいけない』


町外れに彼が出没するという噂を聞いたのは、いつだったろう。別に、その噂を心から信じたわけじゃなかった。ただ、そういうことが起こればいいと思っただけ。


気付けば、町の人達は誰も近寄らないその場所へ、私は訪れていた。日はすっかり傾いていたけど、構わなかった。


どうせ、どれだけ留守にしても、自分を心配してくれる人なんていない。彼が現れるまで居座ってやろうと、私は意地を張った。


今も、そしてあの日もそうだった。突然目まいがして、思わず地面に膝を付いた。付かずにはいられないほど、急激な目まいだった。


いつぶりなのかわからない鼻血まで出始め、噂が本当だったことを確信した瞬間、背後で気配がした。


「ふり返るな」と男の声がした。


あまりにも強烈な気配に当てられていたから、言われなくてもふり返ることなんて出来なかった。私の胸は激しく高鳴っていたけど、それは恐怖のせいじゃなかった。


「私、あなたを知ってる」


私は言った。


「とびっきり背が高くて、とびっきり手足が長くて、とびっきり顔が白くて」


彼は何も言わなかった。その沈黙に、私はなぜか人間臭さを感じた。


「ねえ、名前は?」


「無い」


「じゃあ、通り名は?」


「“スレンダーマン”」


彼はいかにも忌々しそうに答えた。


私はあらゆる症状に苛まれながらも、生者のものではないその声に心を奪われた。


「私、あなたに会いたかったの」


それから、毎日ここで待ち合わせをしている。


顔じゃなく背中を合わせて、私達は語らう。本当は、彼が命知らずの私に小言を言うくらいのものだけど。


私は立っていることが出来ず、頭は地面に付きそうになっているけど、そんなことより彼がそばにいることが嬉しかった。


「もう来るな」


あの日から何十回と口にしていることばを、彼は言う。


「嫌よ」


「君は、自分がどんな状態なのかわかってるのか?」


「わかりすぎるほど、わかってるわ。……私が、もう長くないことも」


「それをわかっていながら、どうしてここに来るんだ」


私は、真っ赤に染まった地面に触れ、鐘を内包しているような頭に触れ、最後に彼の影に触れた。


「寂しくないから」


影ですら把握することが出来ない彼の姿。それが、こんなにもいとおしい。


「あなたのせいで目まいがして、あなたのせいで鼻血が出て、あなたのせいで頭が割れそう。でも、それって最高なの。だって全部、あなたがそばにいる証拠だから」


真っ赤なはずの地面が、時々暗くなる。意識を失いかけているんだろうか。私はハンカチを顔に当て、なんとか背筋を伸ばした。


「もう来るな、頼むから」


彼の声が震えている。そうだよね。自分のせいでまた人が死ぬのは、耐えられないよね。でも、それをわかっていながら、そばにいてくれたんだよね。だから、毎日待ち合わせしてくれたんだよね。でもね、


「私達、待ち合わせしたことないよね」


「毎日してるだろう」


「ううん。待ち合わせはね、顔を合わせて、初めて『待ち〝合わせ〟』になるの」


私は、ハンカチで顔を覆ったままふり返った。彼の気配は、まだそこにある。彼が一拍遅れて息を呑むのが聞こえた。


もう、遅いよ。


「だから、今ここで『待ち〝合わせ〟』して」


そしてハンカチを顔から外し、私は彼の姿を見た。


追記:
公募ガイドの『第71回 TO-BE小説工房』に応募したものです。(そして、落選したものです。)南無三。
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