笑って、笑って(1623字)

この国では、“マスク”の着用が義務付けられている。


“マスク”は、数十年前に比べるとかなり変化した(僕が生まれたときは、すでに現在の“マスク”だったから、教科書でしか見たことがないけど)。


従来の“マスク”がカバーできるのは、せいぜい鼻から顎までで、しかも安価なものは布製だったらしい。


現在の“マスク”は、前髪の生え際から喉の辺りまで、余すことなくカバーされている。しかも、特殊加工のおかげで、視界は良好だし、呼吸に支障もない。


おかげで、かつてこの国を混乱に陥れたウイルスから(“マスク”は、この時期に開発されたらしい)軽い鼻風邪まで、感染する可能性はほぼゼロに等しくなった。健康寿命は、年々順調に伸びているらしい。


そんな健康大国では、現在あることが問題視されている。人間関係の希薄化だ。


従来の“マスク”は装着していても、目はのぞいていたし、眉の下がり具合で表情を窺うこともできた。


けれど、“マスク”が文字通り覆面になってからは、子どもから大人まで、誰もが同じ顔になった。


“マスク”にはあらかじめ、誰が誰なのか識別できるシステムが組み込まれている。それで、コミュニケーション上は何の問題もないはずだった。


でも、表情が一切変わらないのは、感情が一切見えないのと同じだった。


どれだけ声を荒げても、大声で泣き叫んでも、〝マスク〟の上の表情は沈黙を貫いた。表情と感情の差が開けば開くほど、自分のことがわからなくなり、他人には近寄りがたくなる。


この国の人達は、健康と引き換えに表情を失い、感情も失いつつあった。


ある日僕は、自販機で缶コーヒーを買った。プルタブを開けていると、先に買ったおじさんがうっかり“マスク”を外そうとして、その手を慌てて止めたのを見た。


その姿を尻目に、僕は熱々の缶に慎重に口を付けた。もちろん、“マスク”は付けたまま。


従来の“マスク”は、わざわざ外さないと飲食できなかったらしい。現在の“マスク”が導入された時期を考えると、あのおじさんは従来の“マスク”を使ったことのある世代なんだろう。


あれから何十年も経っているのに、その頃の癖がまだ抜けていないんだろうか。僕は使ったことがないから、おじさんのような間違いをすることは、絶対ない。


体を芯から冷やす気温をしりぞけるように、コーヒーを一気に飲み干すと、何かが鼻先に触れた。


指先をそっと這わせてみると、爪の間が濡れていた。見上げると、それらは次々に僕の顔に舞い降りた。


雪だ。


僕は顔を上げたまま、所在なく宙に漂う雪を眺めた。顔面が少しずつ濡れ始め、“マスク”がより密着するのを感じる。“マスク”は撥水加工されているけど、完全防水じゃない。


無意識の内に、僕は“マスク”を外していた。握っていた缶も落としていた。ただ、肌に直接触れる雪に夢中になっていた。その冷たさに、言葉にならないもどかしさが体中を走った。


ふいに、地面を擦るような足音がした。ふり返ると、見知らぬ女の子が立っていた。


見てはいけないものを見てしまった。そんな顔をしている。それとも、『見られてしまった』だろうか。彼女もまた、“マスク”を外していたのだから。


彼女の顔は汗ばむようにしっとり濡れ、水滴が頬の上を滑り落ちた。僕もきっと、同じ顔をしている。


僕はやっと、自分も“マスク”を外していることに気付いた。互いに“マスク”を外した状態を目撃されていたけど、それを咎めることはしなかったし、ましてや付け直すこともしなかった。


僕は初めて、他人の顔を見た。実の両親すら、自分が生まれたときも“マスク”を外すことは許されないのだから。


僕らは、何も言わなかった。けれど、目が合った瞬間、ほとんど同時に涙を流した。


自分がどうして泣いているのか、わからなかった。でも、この感情の正体は、なんとなくわかった。これが、『人恋しい』という感情なんだ。彼女も、それを感じているんだろうか。


雪は延々と降り続け、時々僕と彼女の頬に張り付き、涙と共に流れ落ちた。


追記:
公募ガイドの『第72回 TO-BE小説工房』に応募したものです。(そして、落選したものです。)南無三。
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