ユーモアと優しさ 消え失せた密画

「ふたりのロッテ」を読んでいた時、その映像的な文章に驚いたのだけど、あとがきを読むと実際映画の脚本として書かれていたことがわかりいたく納得してしまった。そして今回読んだ「消え失せた密画」も、映像化の相性が良さそうな作品である。もちろん派手なCGや映像のインパクトを競うような昨今の映画界では地味な作品になってしまいそうだけど、もし過去の巨匠が撮っていてくれたら……そんなことを夢想したくなる。私個人としては、ビリー・ワイルダーこそふさわしいと思うのだけど、サスペンス味を強調するならヒッチコックもありだろうか。それにしてもビリー・ワイルダー監督「消え失せた密画」見たかったものである。

「消え失せた密画」は、ミステリやサスペンスというよりはコメディである。それもドタバタ喜劇の方で、スラップスティック的な趣がある。とはいえ、絶対に下品な感じにはならないのがケストナー。あくまで上品に、笑いの中にも優雅さやおかしみがあり、紳士の嗜みですよ……という格好を崩さない。

ざっくりとあらすじを言うならば、高価な密画をデンマークからベルリンに運ぼうとするイレーネ嬢を手助けすることになった人の良い肉屋の親方キュルツ氏。密画を狙う悪人たちから無事に密画を運べるのか……という筋立て。この密画には巧妙な複製があり、それをめぐった取り替えっこのドタバタあり、謎に満ちたイケメンの暗躍あり、と直線的なストーリーを彩る仕掛けがたくさんある。そしてあらゆる素材をうまーく料理するケストナーの手腕はここでも遺憾なく発揮されている。

この作品をコメディたらしめてるのは、主人公のキュルツ氏の存在も大きいのだけど、なんといってもおかしみに溢れた悪人たちの存在にある。デコボココンビを筆頭に、首魁までがどこかおかしく描かれる彼らの手口にはいちいち笑ってしまう。ツッコミどころがあるといえばそれまでなのだけど、このテイストの作品を前にそれは野暮というもの。からりとした後味の笑いを堪能したい。

一方キュルツ氏はといえば、底抜けに人が良くその振る舞いは笑いというよりは、素朴な人柄の気持ちよさ、清々しさに繋がる。おそらくドイツのなまりを表現するために口調が薩摩言葉で訳されているのは、意図は伝わるけれど作品舞台の雰囲気は若干損なっているような……と思わなくもないけれど、これも読み進めていくうちに慣れてくる。この主役のキュルツ氏、ドイツで肉屋を営む親方。真面目に働き続けていたところ、ぷいっと思いつきでデンマークに旅行してしまうというのがこの物語の発端になる。このキュルツ氏というごく一般の人間をケストナーがいかに愛情たっぷりに描くかというのも読みどころである。ここから、やや本筋に踏み込んだ話をするけれど、本書はミステリではないのでお許しいただきたい。キュルツ氏、ひょんなことから本物の密画を2回も手に入れてしまう。2回目に関してはもうくどいのでは?というぐらいですらあるけれど、ケストナーはダメ押しとばかりにそれを描く。これがなぜ必要かといえば、キュルツ氏というのは本当に底抜けに人がよく、欲がないからに他ならない。つまり、もしもここでずるい人ならば、ひょんなことから手に入れてしまった密画を「いやこれは私が受け取ったのだから私のもんです!」とやりかねないのであり、それこそ「エーミールと探偵たち」のグルントアイス氏ならそういうことを言ってしまうのだけど、キュルツ氏はそういうずるさを微塵も持ち合わせていない。市井の人々を見つめるケストナーの目はこういう所で優しさと敬意となって現れている。

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