咲かざる者たちよ(第二十二話)
その日が今年最後の夏日だった。十一月も終わりに近づいているにもかかわらず、日中の日差しは夏を感じさせられるほどであった。
眞島は花屋の鍵を開けるなり、窓を開けて「ふぅ。」と心地よい風に包まれて深く息をついた。汗が滲むシャツをパタパタと扇ぎながらショーケースの電気を次々に点灯させていった。色とりどりの花を一種類ずつ丁寧に手に取り、愛情を込めて手入れをした後、眞島は扉の「準備中」と書かれた看板を裏返した。
扉を閉めて、店内のBGMの再生ボタンを押そうとレジカウンターへ入った時、扉の横の壁の窓から数日前に店に来た青年が、商店街入り口付近の石段に座っているのが小さく見えた。眞島はすぐにレジカウンターから出て、興味津々で窓に近づいた。その青年は、なにかに思いを巡らせながら、手帳に何かを熱心に書き込み、時折それを眺めてはまた何かを書き加えていた。
十三時を知らせる時計のチャイムがひっそりと店内に流れると、眞島はその音に気付かされるように、再び仕事に戻った。しかし、鉢を洗い、包装紙を整理し、店内を掃除する間も、眞島の視線は度々その青年の方へと向かった。
レジカウンターで予約票を確認している最中、ふと窓の外に目をやると、青年がこちらに向かって歩いて来ているのが見えた。眞島は慌てて手を止め、一度編んだ髪を整え直した。青年の姿が扉の前に近づくのを確認し、眞島は急いでレジカウンターの奥の部屋に身を隠した。部屋の中のロッカーにかけられた鏡で素早く身なりを整え、ポケットから取り出したリップを丁寧に唇に塗り直した。
間もなくして、扉の木製風鈴が心地よい音色を響かせ、青年の入店を知らせた。眞島は深呼吸を一つし、自らを落ち着かせるために胸に手を当てた。平静を装いつつ、「いらっしゃいませ。」といつもの声で挨拶をした。そして、何となく横にあった蛇口を無意識に捻り、指先を濡らした後、棚に収められていたビニールの包み紙を取り出し、その音に自分の高まる胸の鼓動をかき消すようにしながら店内へと顔を出した。
そこにはやはり先ほどまで石段に腰掛けていた青年がいた。眞島はその青年と目が合うと、彼の何かを言いたげな表情に気付き、すぐに彼の元へ駆け寄った。
青年を再び目の前にした眞島は、確かめるようにその澄んだ瞳と鼻筋を見た。青年の視線が眞島の胸についている名札へと移るのを見て、彼に自分の名前を知ってもらえることへの期待と喜びに心が躍った。
「マシマ…」と青年が確かに小さく呟くと、眞島の心は得体の知れない満足感で満たされ、思わず微笑みがこぼれた。
突然、青年はポケットから茶褐色に汚れた手帳を取り出し、一息ついてページを開いた。彼がページを確認すると、それを眞島に向かって示した。そこには細部まで緻密に表現された花の絵が描かれていた。花弁には美しい濃淡の藍色が塗られており、それがすぐにリンドウであることがわかった。
花の命の繊細さがペンと藍色の絵具だけで再現されていたその絵に、眞島は心を打たれた。眞島は、青年の指先に付着している、まだ落ちきっていない藍色絵の具の跡を見た。それから二人は花についてしばし話を交わしたが、その間眞島は青年の恥じらう顔を鮮明に記憶に留めるよう、彼をじっと見つめ続けた。
夕方六時の閉店時間を過ぎ店内のBGMのスイッチをオフにした。静かな店内に響く物音がひんやりとした空気に溶けていくようだった。あの青年は次、いつこの店に来るのだろうかという思いが、眞島の手を再び止めさせ、店内には一層の静寂が広がった。
店の看板をまた裏返しにして扉に鍵をかけると、眞島は横断歩道を渡り、帰路に着こうとしていた。その時、目の前の横断歩道を渡り終えた先の、駅とは反対方向の石段に、再び青年が腰掛けているのが見えた。眞島は細い腕時計をすぐに確認した。
「(電車の時刻まであと三十分…。)」と考えるや否や、彼女は急いで斜めに横断歩道を渡り、青年のいる石段へと向かった。しかしその瞬間、青年が石段から立ち上がり商店街へ歩を進め始めた。石段に向かおうとしていた眞島の正面から青年が俯いてとぼとぼ歩いて来た。眞島はできる限り近い真横を通りすぎると、踵を返して数メートル先を歩く青年の後をそっとつけた。
その青年は商店街にある古本屋やスーパーで買い物を済ませると、古びた烏賊焼き屋の屋台で足を止めた。年老いた店主と何やら話を交わし、烏賊焼きを受け取ると、彼は再び人混みに姿を消した。間もなく眞島も、青年と同じようにその屋台で烏賊焼きを買い、彼が先ほど腰掛けていた石段に向かった。青年が腰掛けていた場所に座り、粗い石の表面を指でなぞった。
ふと空を見上げると、夕空を舞台に数羽の鳥が集まり、軽やかに歌を奏でるかのように囀っていた。
その光景を目にした眞島の中で、青年の生活を影から覗き見ることへの罪悪感が一掃され、瞬く間に昂揚感へと姿を変え、それはまるで橙色の空へと溶けていくかのようだった。
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