甘い誘惑と深夜の酒処 Ⅱ
Rp.2 レアチーズケーキ
今日は祝日前だったからなのだろうか。
薬剤師、石丸勝之が経営している薬局カフェ、ファーマテリアは日中凄く混んだ。祝日、日曜日は休みを頂いている薬局なので祝日明けには処方せんの期限が切れている、ということも十分有り得る。
今回は祝日、日曜日と休みが続いていた週だったので混雑の影響が出たようだ。
処方せんは期限が切れたら患者側で再受診をしなくてはならないし、再受診して再発行された処方せんの薬は自費というのが基本スタンスだ。例外もあるが。
まあ、祝日前や日曜日前に混むのはどこの薬局もあることだろう。
この薬局は夜になると日本酒バーのバー・ファーマテリアへと店舗形態を変える為、夕方に一旦薬局を閉めてからバーの準備をするのだ。
石丸は最後の患者にお薬を渡して、一緒に薬局の外まで出た。
「また何かあったら相談してくださいね。お大事に」
患者の後ろ姿が見えなくなるまで見送る。
石丸がいつもやっていることだ。
「それにしても今日は凄く混んだ。さすがに疲れたなぁ」
店のドアをパタンッと閉めてドアに背中をピッタリくっつけた。石丸の口からフウッと疲れの混じった溜め息が出る。
妻の桜は仕事からまだ帰ってこない。
バーの準備は開店時間までに石丸1人でしなくては。
日本酒冷蔵庫の温度計を確認する。
温度は酵母の活動が静止すると言われているマイナス5℃だ。
今日揃えているお酒は三重県の而今、山形県の朝日鷹、熊本県の産土…どれも名酒ばかりだ。
日本酒リキュールはSNSでお世話になってる仲の良い「姉御」に送ってもらったものがある。
全ての瓶に水滴がついていないことも確認して冷蔵庫の扉を閉じた。
店内の床に掃除機をかけ、カウンターの水拭きを終える。
バー開始10分前くらいになり、もうお店を空けても問題ないというタイミングだった。
表でドサッと何かが落ちるような音がした。
音がした方向を石丸は見つめる。
「……?何の音だ」
雪が屋根から落ちるような音だった。
山形県に住んでいた石丸には似たような音と感じたが、ここは都心のど真ん中だ。
最近、雪も降ってはいないし雪が落ちる音なんて有り得ない。
表へ様子を見に行こうか考えていたその数秒後だった。
「石丸ちゃーん!お店にいる?手伝って……!」
聞いたことのある声。
(恐らくこの声のトーンは夏帆さんだ…!)
石丸は小走りで移動し店の扉に手をかけた。
表にいたのは薬剤師で常連の高橋夏帆だった。
が、お店にきた訳ではなさそうな上に困った顔でその場で立ち尽くしていた。
そして、店の看板前に倒れている男性。
「え、夏帆さん、この人、大丈夫なんですか?救急車呼びます?」
倒れていた男性はゴロンッと寝返りを打つ。
次の瞬間、男性の顔が見えた。
赤ら顔で酔っぱらっているであろう顔色だった。
「いや、呼ばなくて大丈夫だと思う…」
夏帆が半分呆れながら口を開いた。
「増岡さん………?!」
石丸は驚いてその場で声をあげた。
石丸のお店の前で酔っぱらって倒れていた増岡庄司は某中小企業で現場のエリアマネージャーとして活躍している薬剤師だ。石丸とも夏帆とも知り合いである。
薬局の素晴らしい活動を一般の人に知ってもらう年1回のイベント「薬局の祭典」の裏方スタッフもこなし、その他色んなイベントで顔を見せていて行動フィールドが広い。そして、めっぽう酒は強い。
「増岡さんがこんなに酔っぱらってるの、珍しくないですか?この人お酒強いでしょう?」
石丸は増岡の上半身を起こしながら夏帆に聞く。
「わかんない。私もたまたま仕事の帰り道で増岡さん見かけて酔っぱらってフラフラしてるの心配になったからちょっと追って見てたんだけれど、石丸ちゃんの店の前で倒れて寝ちゃって…でも、もうすぐ開店時間でしょう?このまま寝かせておく訳にもいかないなって思って、石丸ちゃん呼んだのよ」
夏帆は戸惑いながら状況を説明する。
「少し前まで転職したばっかりで、なんだか大変そうでしたものね…増岡さん。僕のお店で休んでもらうので、大丈夫ですよ。夏帆さんはお家に帰ってください」
増岡の右腕を自分の右肩にかけて、おっこいしょ、と石丸は立ち上がった。
「急性アルコール中毒ではなさそうだから、大丈夫だと思うんだけれど、ぶん投げた感じになってごめんね。石丸ちゃん、お願い」
手を合わせて夏帆は申し訳なさそうにする。
「昼間、薬局やってるくらいのお店なので何かあってもどうにかしますよ、安心してください」
冷えた空気の中、夏帆を帰し、石丸は肩に抱えた増岡と共に店に入った。
ーーーーーーー
酔っ払った増岡の目が覚めたのはそれから1時間後だった。増岡の目に一番最初に入ったのは天井から吊るされたお洒落なアンティーク調のランプ。
ムクッと上半身を起こすと、体にはタオルケットがかけられていた。どうやら店のボックス席のソファーで寝かされていたようだ。
「増岡さん、目、覚めました?」
聞き慣れた声が増岡の耳に入る。
声がした方を向くと石丸がグラスに水を注いでいた。
石丸は増岡の席までその水の入ったグラスを持ってくる。
「何か、少し飲みすぎたみたいだな。洒落っ気のある店の前まで来てそこから記憶がとんでるわ」
増岡の一言に対して石丸が失笑した。
「それ、僕のお店だったので記憶はちゃんとあるようですね。体調大丈夫です?」
石丸に持ってきてもらって水をゴクッと一口飲んで増岡は答えた。
「全然気持ち悪くはないんだけれど、ラーメンとか甘いものが食べたいというか」
ああー…と頷きながら石丸はキッチンの冷蔵庫の方向へ踵を返した。
「アルコール性の低血糖症状が少し起きてますね。肝臓がアルコール代謝している間は他の機能が働かなくなって血糖も上がらなくなっちゃうんですよね。レアチーズケーキならありますが、それでも良いですか?」
増岡も腹回りが気になる年頃だ。
ラーメンや炒飯よりもカロリーが低く甘いものは有難い。
実はアルコール性低血糖が生じている時に高カロリーの食べ物を摂取するのは良くないという事実はあまり知られていない。石丸もそれを理解していての提案だったのだろう。
「介抱までしてもらって、すまんな」
増岡は水をもう一口飲んだ。
「増岡さん、もうさすがにお酒は飲めないですよね?レアチーズケーキに合わせるお酒…用意あったんですけれど」
冷蔵庫からレアチーズケーキを取り出しながら、石丸が増岡に聞く。
「いや、飲める。むしろ〆に1杯飲みたい」
増岡の返答に、ええ…?と驚きながら石丸は日本酒冷蔵庫を漁る。
「まあ、増岡さんお酒強いですし、自己管理はおまかせですけれど無理はしないでくださいね。って、この商品、アルコール度数そこまで高くないんですけれど」
石丸は冷蔵庫の奥から黄色かかったラベルの瓶を1本を取り出し、キュッと封を開ける。グラスに大きめの氷を氷用トングで1粒摘まんでコロンと入れた。
柑橘香のする黄色い液体がトポトポとグラスに注がれる。大粒の氷が注がれる液体でクルクルと回って煌めいて見えた。
石丸のお待たせしました、と声と共にレアチーズケーキがのせられた皿と黄色い液体が入ったグラスが増岡の目の前に運ばれてきた。
「これ…リキュールか?」
増岡がグラスを持ち上げてまじまじと液体を見つめている。
石丸がカウンターに置いてある中身を注いだ瓶をヒュッと手に取り、コトンと増岡の目の前に置いた。
「小夏リキュールです。高知県の亀泉酒造、ご存知ですよね?辛口酒が基盤の高知県で香り高い全くジャンルが異なる日本酒を出したことで有名な蔵です。そこの小夏っていう柑橘を使った日本酒リキュールなんですよ」
石丸の説明を傍らで聞きながら増岡はグラスをクイッと傾けて酒を飲む。
オレンジやレモンとは異なる柔らかい酸味、ほんのり舌に響く絶妙な甘さ。炭酸で割ってしまったら消えてしまいそうな繊細な味だからこそ、石丸がロックで用意してくれたのも納得だ。
「美味いなぁ」
増岡が美味しそうに飲む姿に石丸も嬉しかったようだ。
「増岡さん、日本酒大好きですもんね。薬剤師で日本酒をプロデュースするプロジェクトも主催されてますし」
ちゃんとレアチーズケーキも一緒に食べてくださいよ、と口を「へ」の字にした石丸に促されて、増岡は慌てて一口レアチーズケーキを食べる。
「酸味が強めなんだな。あとレアチーズケーキにしては軽いんだけれど、ちゃんと濃厚さが残る」
増岡は勧められるがままにレアチーズケーキと共にお酒を口に追加した。
柑橘とチーズの相性が良いのは分かっていたが、レアチーズケーキの酸味が強いお陰で小夏リキュールの甘さが引き立つ。
「これ、レアチーズケーキの方に工夫してるのか?酒と組み合わせたら高級デザートになったぞ」
増岡のコメントに、高級なんて言い過ぎです、と石丸。
「カロリーを控えめにするために高タンパク質のヨーグルトをクリームチーズと同じ割合で入れてます。濃厚さを感じるのはサワークリームを加えてるからですね。サワークリームって生クリームが発酵したものなんですよね。正体知った時は驚きましたよ」
おおー…と感激しながら増岡はレアチーズケーキとお酒をゆっくり平らげた。
石丸が食べ終わった皿と飲み終わったグラスを増岡の前から下げてキッチンに持っていく。増岡は水を飲み周りを見回していた。
「今日はそんなにお客さん来てないのか」
増岡が洗い物をし始めた石丸に話しかけた。
「増岡さんがボックス席で寝ている間にそこそこお客さん来店してましたよ。ほら、もう時間が時間だからね」
店の柱にかかっている時計は23時半になろうとしていた。
「そろそろ、帰る準備するかな。………良いもの食べさせてもらったよ。ありがとう」
増岡が財布からクレジットカードを取り出しテーブルの上に置いた。洗い物を中断して石丸がお会計をしに増岡の席へと足を運ぶ。
「柑橘の酒とレアチーズケーキなんて絶対に美味しいから、そんなもんだろうって思ってた。【美味しくて当たり前】でも、違うよな。食べてみて、飲んでみて、そう思った。当たり前の中で当たり前が洗練されていってちゃんと見えるものってあるよな」
増岡は視線が一点を見つめながら話を続ける。
「俺、最近、大手企業から中小企業に転職したじゃん?まあ色々大変だった。環境全然違うし大手にいた時の当たり前がないし。ストレスでヤケ酒とも言いがたい飲み方してさ、周りにも心配された。でも転職は決して後悔してない。当たり前がキチンと出来るような環境に現場を立て直していけたらいいと思ってる」
石丸はクレジットカードの支払いを切りながら黙って増岡の話を聞いていた。
ピピピ…と処理が終わった音を確認して石丸はクレジットカードを引き抜いた。
「僕、かなーり前に転職で悩んで増岡さんに相談したの覚えてます?その時、当たり前のことを提供してくれる、やってくれる企業っていうのを凄く考えさせられましたよ。今、独立したから今度は僕が提供する側だよなって思います。患者さんやお客さん、そしてここで働いてくれる人達に対して。一生勉強ですね」
そう言って石丸は増岡の手にクレジットカードを返した。
そうだな、と一言言って増岡は席を立った。
「今度は日本酒、飲みにくるよ。日本酒プロジェクトチームの薬剤師達と一緒にな。今日はありがとう」
背広を正して、荷物をまとめる。
そういえば石丸が増岡のスーツ姿を見たのは初めてだった。
「是非、来て下さい。今日出した小夏リキュール、姉御に送ってもらったお酒なんですよ。気に入ってもらえて良かったです」
それを聞いた増岡が、マジかー、元気してるかな、と笑った。
石丸が店の扉を開ける。チリン、と鐘が鳴る同時に増岡と共に外へ出る。風もなく月が綺麗な夜だった。
じゃ、と増岡は振り返り様に片手を上げた。
「ちゃんとお水飲んでくださいねー!二日酔いにならないようにしてくださいよ」
聞こえてるであろう声量で増岡に声をかけ、石丸は増岡の後ろ姿を見送った。
店に戻ると、石丸がさっき洗いかけにしていた食器を妻の桜が洗っていた。寝ていたであろう飼い猫のかぼちゃもキッチンに顔を出しにきている。
「あ…帰ってたんだ。お帰り。ってか、洗い物!ごめんね」
洗い物をしていた桜の隣に駆け寄って石丸が桜と並ぶ。いいよ、あと少しで終わるから。と桜は洗った食器を石丸にパスする。
察したかのように石丸は渡された食器を布巾で拭いていく。
「本当はもう少し早めに帰ってたのだけれど、男2人の話で邪魔しちゃ悪いかなぁって、かぼちゃと別室で遊んでたの」
ねー、と笑いながら、桜はかぼちゃに話しかけた。
理解してるのか、みゃおん、と、かぼちゃが鳴く。
「それは気遣わせちゃったね。食器も洗ってもらっちゃったし…ありがとう」
増岡が最後の客だったようだ。
ちゃんと家に帰れているだろうか、と頭の片隅で気にしながら石丸は拭き終わった食器を棚に入れていく。
柱の時計を見ると12時になろうとしていた。
今宵のバー・ファーマテリアは閉店時間を迎える。
ーRp.2 レアチーズケーキ 完 ー
◆紹介酒蔵◆
亀泉酒造「小夏リキュール」
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