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5.やさぐれ男と弥右衛門(前編)

「あんなこと言われてもなぁ」

渡部拓也は調剤室の柱にもたれて背中からずり落ちた。もうすぐ転職で、この薬局から自分はいなくなるっていうのに。

トラブル対処は得意な方だった。

元々、学生時代に飲食店で接客業はやっていたから感情的になった客をどう鎮めるかなんてお手のものだったし、トラブルが起きないように先回り対処するのも得意中の得意。

でも今回起きたことはどうしようもない。

「出来ることなんて、何にもないもんな…」

体育座りをするような格好で顔を伏せる。拓也の口から重めの深いため息が出た。

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拓也がこんな状態になる数分前の話。その年配の男性はいつも通り病院に受診して薬局に来た。

薬はいつも通りの内容。
お薬のことや体調のこと、日常の他愛のない話をして、お大事にしてください。
そういう流れで終わる。いつもなら。

今日は1つだけ違った。
服薬指導が終わって、帰る準備をしている男性を拓也は声掛けして引き留める。

「田中さん、すみません。ちょっと時間ありますか?」

お薬手帳を鞄に入れていた男性が手を止めて、どうした?と拓也の方を見る。

「伝えるのが急でギリギリになってしまって申し訳ないのですが…あと1ヶ月で僕、ここの薬局を辞めるんです。転職して東海地方に行くことになりました。田中さんのかかりつけ薬剤師をやらせて頂いて色んな話して教えてもらうことも沢山あって。感謝しかないです。」

拓也の話を聞いて男性は目を見開いた。その瞳が丸くなったと思ったら顔を伏せた。そのまま黙り込む。

「僕の後任の後輩に色々とお仕事を引き継ぎしてるところで。彼はまだまだ未熟なのですが、よろしくお願いします」

申し訳なさそうに拓也が頭を下げた。

男性は伏せていた顔を上げた。
拓也の方は見ないで、彼の口だけが動いた。

「俺は…お前が薬の管理をしてくれるって言うから、ここの薬局に来ていたんだ。俺の薬の管理は、体調の相談は。お前がいなくなったら、誰がやってくれるんだよ」

寂しさと不安、そして不満と怒りが入り交じったような声色だった。

「田中さんが不安にならないように、患者さんのことも後輩に引き継ぎます。そこはご安心ください」

拓也がフォローするも、男性は首を横に振った。

「俺はお前が良かったんだ。お前がいないなら、この薬局に用はない。今まで世話になったな」

薬局のドアをひいて男性は出て行く。

「ちょっ…田中さん!!!待ってください!!!」

拓也が追いかけるも、男性はこちらを振り向きもせず自分の車に乗り込みその場から去ってしまった。

「マジかよぉー……」

両手で顔を覆って天を仰ぐ。拓也は1人、薬局の駐車場で立ち尽くした。


拓也はこの薬局で多数の患者のかかりつけ薬剤師を務めてきた。

かかりつけ薬剤師とは薬による治療のこと、健康や介護に関することなどに豊富な知識と経験を持ち、患者のニーズに沿った相談に応じることができる薬剤師のことをいう。

1人の患者に1人の薬剤師がほぼ張り付くような形。いわゆる「担当」みたいなものだ。
美容室で言う「指名制」に近い。
患者から申し出することも出来るし薬剤師側から声掛けすることもある。

かかりつけ薬剤師をお願いすると投薬の都度お金はかかるが、金額じたいは大した金額ではない。
24時間の相談電話対応をしてくれるし「同じ薬剤師が良い」という人は割といて、制度を利用する患者はそこそこいる。

ーーーーーーー

体育座りをして顔を伏せていた拓也に、後輩の溝口が心配そうに声をかけてきた。

「そういえば、田中さんって一部、不足薬ありましたよね?さっき、もう薬局来ないみたいなこと言ってましたけれど大丈夫なんですか?」

そういえば。
ゲゲゲ……と拓也はバツの悪い顔をして首を横に振る。

「あの薬だって出荷調整がかかってる薬じゃん…薬局に薬入ってこないとかさ、どんな世界線だよ。日本狂ってるよ。本当にさ」

現在、日本では一部の製薬メーカーの不祥事が発覚して薬の出荷調整が起きている。
薬の自主回収や供給不足が生じて、それが呼び水になり新たな別製薬メーカーの出荷調整が生じた。連続する悪循環。薬の原価は下がる一方で薬を製造するのを止めてしまう製薬メーカーも現れた。

さらに拍車をかけたのは今、流行り病の感染症。
感染者の増加で使用する薬剤数が増える。薬の枯渇を促進し全国で色んな薬が薬局や卸に入ってこないのである。

薬がない、と訴えるも医師や患者に怒られたりすることだってある。
でも薬剤師として代替え薬を提案したり近くの薬局同士で連携して薬の不足を埋めあったり、出来ることは全部やる。

それは拓也達だけではない。全国の薬剤師が現在、尽力を尽くしてやってることだ。

「田中の爺ちゃんの薬は僕がなんとかして手に入れる。薬局にはもう来ないみたいなことは言われたけれど、一回家に連絡してみるよ。ってか、届けに行くし」

拓也は顔を上げた。
いつまでも落ち込んでいられない。
あと1ヶ月、自分が患者に出来ることをやるしかない。

ーーーーーー

田中の爺ちゃんは以前、検査の値が凄く悪かった。このままだと病気が進行して目や神経、腎臓にもその影響が出てしまう可能がある。

彼は治療に興味が無かった。
薬の飲み忘れがある。
色々病気や薬のことを言ってみても「それって大変なことなのか?」と首を傾げている。
そして、大の日本酒好きだった。

どうやったら彼は自分の健康や治療に興味を持ってくれるだろう。

僕がここにいる限り、彼の健康と薬の管理をしてあげたい。それで一言声をかけた。

「田中さん、今度から僕が田中さんのお薬お渡しするの担当しますから、一緒に治療頑張っていきましょうよ」

おう、いいよ。と爺ちゃんはさらっと了承してくれた。地元の人だったのか、町の公衆浴場で会うこともあった。

「おう、お前来てたのか。仕事終わりの温泉ってのは最高だよな」

風呂あがりだったのだろう。彼が缶ビールを空けてカシュッと空ける音が響く。

「お酒、今日はそれだけにしときましょうか。日本酒はまた次回ですよ」

拓也が両手の人差し指でちょいちょいとバッテンを作って注意をする。

「孫がお前と同じくらいの年でなぁ、お前が言うなら今日はこの1本でちょっと止めておこうかな」

田中の爺ちゃんはグビッと煽るようにビールを一気に飲んで缶を捨てた。

「俺はもともと福島県喜多方出身でな、喜多方の大和川って蔵の酒が大好きなんだ。あのカスモチ原酒って甘い酒、たまらんよな。ずーっと飲んでいられる」

その酒の味を思い出しているのか、爺ちゃんは目を閉じてウンウンと頷きながら語る。

「そうなんですか。僕の祖父が喜多方出身で、この名字も福島県特有の名字なんですよね」

そう言う拓也に対して「ん?そうなのか」と爺ちゃん。

「お前の名字って「ワタベ」って読むんだろ?」

拓也が違いますよー!と訂正する。

「渡部って書いて「ワタナベ」って読むんですよ!喜多方市の一部じゃ多い名字なんですけど、知らないですか?知っていてくださいよ」

知らなかったな!ガハハ、と普段あんまり話さない爺ちゃんが、酔っぱらっていたのか豪快に笑った。

こんな顔で笑うんだ
この人にもっと生きていて欲しい

僕は孫でも何でもなくて
今はこの地域の薬局のただの薬剤師だけれど
そう、拓也は思った。

そんな拓也が転職を決めたのは急だった。
理由はシンプルだった。

「会社に甘えたくない」

研修の費用が会社から落ちない等の不満はあったが、それは転職に至る程でもなかった。
転機のきっかけは急に降ってくるものだ。

ふと、拓也は考えた。

自分はこのままで、この会社に甘えて、そこそこ良いお給料を頂いて、敷かれたレールの上を歩いていって。

今は、資格があればどこでもやっていけるであろうこの職業は時代が変われば不要と扱われる日がくるかもしれない。

このままで良いのだろうか。

そう思ったら急に恐くなった。
薬剤師を片手間にやりながら人事の仕事だってマネージャーの仕事だってやらせてくれる会社はある。

自分自身、要領が良いと分かっているし、どこでもやっていける。会社が変わっても変わらなくても上手くやれるのは分かっている。

でも、所詮、やってもいないことはやらなければ「未経験」のままだ。やらされている仕事をこなすのではなく、自分の足で立って自分で考えて動けるようになりたい。


かかりつけ薬剤師を担当してきた患者さんに申し訳ないとは思いつつも、色々と考えた結果、拓也は自身の為に転職を決意した。

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とりあえず今日は散々な1日だった。
疲れきった顔をしながら拓也は帰路につく。

「田中の爺ちゃん、検査値やっと良くなってきたんだよな。あのまま他の薬局行ったとしてちゃんと管理してくれる薬剤師に出会えるのかぁ…」

独り言を言いながら拓也はアパートの駐車場に車を停める。
自宅に向かうと拓也の部屋のドア前で宅配便のお兄さんであろう人がウロウロしている。

「あ、もしかしてウチの荷物ですか?」

インターホンを鳴らした後だったのだろう。
拓也の声に宅配便のお兄さんが振り返る。

「あ、えっと…はい。あのぅ…」

宅配のお兄さんは何か言いづらそうに拓也の方を向いた。それでも頑張って拓也に聞こうとしたのであろう、彼の口が開いた。

「102号室の…宛先が【たくやん様】となっておりますが、【たくやん様】ご本人さまでよろしかったですか?」

細長い箱に貼り付けられた伝票を指さしながら、彼は聞きづらそうに拓也に聞く。

「あ……はい…。そうです」

拓也も答えづらそうにはするものの質問にしっかり回答する。

「ご本人さま、確認とれて良かったです。サインは…いらないので。では」

荷物を拓也に渡すなり、そそくさと彼は去っていった。
受け取った荷物を抱え、拓也は家のドアを開けた。

(たくやんって僕のSNSの名前じゃないか…あんなに堂々と宛先に名前書いて酒送ってくる人なんて、あの人達しかいない。恥ずかしい思いさせやがって…)


受け取った細長い段ボールの側面には「谷芯」のゴシック文字。
酒屋の名前は書いてあるものの、送られてきた主の名前は書いていない。でも、拓也には誰か分かる。

家に入るなり、すぐ拓也は受け取った荷物を床にドシッと置いて開封し始めた。カッターでテープが貼ってある段ボールの切れ目をなぞり、綺麗に空けていく。

拓也は手を突っ込んで中身を確認した。
瓶の感触。やはり酒だ。
そのまま箱から引っ張り出す。


「これ…田中の爺ちゃんが好きな喜多方の酒蔵の…」

グリーンの瓶に透明のラベル。
まるで瓶の表面で踊っているかのような白い文字。

Littlemelody[リトルメロディー]


段ボールの奥底に見えた白い紙を、なんだ?領収書か?と拓也は引っ張り出す。

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【たくやん 様】

Littlemelody[リトルメロディー]は喜多方市の大和川酒造が醸すお酒です。この蔵はもう1つ代表的な弥右衛門というお酒を造っています。

東日本大震災と福島原発事故をきっかけにソーラーパネル発電を中心としたエネルギー事業を始めた蔵でもあります。

お酒は低アルコールで、さらっと綺麗な口当たりと、フレッシュで爽快な甘さ。純米の旨さをしっかり残し、最初の一杯で唸らせます。

ラベルデザインは喜多方を代表するDJクルーが手掛けております。喜多方から新提案、ストリートカルチャー×國酒(日本酒)の融合で完成した一本です。

なお、この商品は貴方様のご友人からお代を頂き配送しております。

心置きなく会津のお酒をお楽しみください。

酒屋・谷芯

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拓也は元々、関西の出身だ。
東北地方で働くことがなければ日本酒に出会うことも日本酒を好きになることもなかった。

田中の爺ちゃんが好きな蔵だって言ってたから、もっと渋そうな蔵だと思っていたけれど、お洒落なデザインのお酒があるんだなぁと感心した。

せっかくクール便で届きたての酒だ。
瓶を開封して一献やる。

液体を飲み込むと分かる。低アルコールの優しい喉越し。
米の甘味と旨味が舌に残る、飲みやすいお酒だ。

「今、東北にいるうちに一回、喜多方に行っておくのもいいな」

このお酒を送ってきたのは、どうせあの人達だろうけれど、お酒を扱っている酒屋の店主とも話してみたいし、爺ちゃんが大好きな大和川酒造にも行ってみたい。

拓也は思い付いたら即行動するタイプだ。
SNSのメールマークをクリックして仲の良い友人であろうアカウントに喜多方に行くのに付き合ってくれないか、と連絡をする。

返事はすぐに返ってきた。

[久しぶり。俺もその酒屋とても気になっていたんだ。再来週の休みなら日帰りになるけれど、そっちに行ける]

その友人と会うのは2週間後。
あっという間に約束の取り付けは完了した。
拓也は一息ついて最後の一口を一気に煽る。

「今日はあんなことあったけれど、このお酒のおかげでちょっと元気になれたし、明日からまた頑張るか」


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田中の爺ちゃんとの一件があってから1週間が経過した。彼に渡せなかった不足の薬が全て揃い、渡せる状態になったのだ。

ここ最近の大雨で何日か前に洪水警報や避難指示が出た地域もあった。
もう解除はされたが、まだ小雨が降っており一部浸水してしまっている地域もあるようだ。

「雨、まだ止みそうにないですね」

溝口が薬局の窓ガラスから外を眺めて呟く。

その横で拓也は田中の爺ちゃんに電話をかけていた。
プルルルルル、と受話器の奥から何回か続いて聞こえる呼び出し音。
次いでガチャ、と電話に誰かが出る音がした。

「もしもし…田中です」

本人であろう声だった。

「お世話になっております、もえぎ薬局の渡部です」

拓也は自分の胸に圧を感じながら声を絞り出す。どんな反応をされるのか正直分からなかった。

「ご不足していた薬が入荷されまして、僕が今から田中さんの家に届けに行きます。おうちにいらっしゃいますか?」

拓也は恐る恐る聞いた。
田中の爺ちゃんはため息をついた後、止めとけ、と短く拓也に返答する。

「ここ最近の大雨で川の水が増水して俺の家の近くの橋が崩れて流されてるんだ。薬は今日で無くなるけど別に大したことじゃないだろう。すぐに死ぬ訳じゃないんだから」

「駄目です」

間髪入れずに拓也の一言が入った。

「今、それを聞いてニュースと交通情報チェックしているところでした。Googleで調べたら遠回りで時間はかかりますが、抜け道を使って田中さんの家に行けば薬を届けることが出来ます。今のところ土砂崩れの危険も無さそうですし、田中さんの残薬が今日で無くなるのは把握していたのでなおさらです」

危ないから来るんじゃない!と爺ちゃんが少し怒っているのが受話器から聞こえた。拓也は続ける。

「田中さんがお酒節制したりお薬ちゃんと飲んでくれたりして、とても良い状態になってきたのに、薬の不足のせいで、災害のせいで…それが台無しになっちゃったら意味がないんです。今は雨も弱いですし、避難勧告や洪水警報も出ていません。僕にお届けさせてください」

爺ちゃんは黙った。
少し間が空いて、気をつけて来るんだぞ、と受話器越しに声がした。

電話を切った後、拓也は白衣を脱いで爺ちゃんの家に薬を持って行く準備をする。

「溝口くん、ごめんね。ちょっとだけ留守番させちゃうけれど」

拓也は溝口に薬局の鍵を渡した。

「大丈夫ですよ、渡部先輩。今日は来局される患者さんも少ないですし、ちょっとの時間なら僕と医療事務さんと2人で頑張ります。雨がまだ強く降る可能性もあるので気をつけて行ってきてください」

しっかりした後輩が跡継ぎで本当に良かった、と拓也は思った。

「よろしくね。行ってきます」

薬局を出て小雨が降る中、自分の車まで小走りで走り、乗り込む。

薬局から田中の爺ちゃんの家までは、本来、橋が崩れていなければ車で15分くらいで着く。
だが、今回は橋が濁流に流されてしまった関係で回り道をするので20分強時間がかかってしまう。

橋が流されたであろう川の横を通った拓也は驚愕した。

激しい勢いで流れる濁った川の水。
恐らく昨日まではもっと水位が高かったのであろう。
泥水の痕が川の縁にくっきりと残っている。

避難勧告が出てもおかしくない状態だったことが想像出来る。

橋が崩れてしまったお陰でその道は使えない。
普段は使わない狭い峠の抜け道に車を向かわせる。

日常生活に車が必須の地域なので、時間はかかるものの、そこまで大変ではなかった。

峠を越えて細い畑道を越えていくと、その家はあった。緑のビニールがかかったハウスに赤いトラクターが入っているのが見える。

(爺ちゃん…そういえば自分の家は農家だって前に言ってたなぁ)

拓也は庭のはしっこに車を停め、不足の薬を持って降りる。車の鍵をしめて雨に濡れないよう家の玄関前まで小走りで移動する。

[田中]と書かれた立派な木彫りの表札が玄関の引き戸の上で静かに佇んでいる。
インターホンを押す拓也の指に戸惑いがあった。


今後、爺ちゃんは、あの薬局に来ないかもしれない。
自分も3週間後には転職で、これで会うのは最後かもしれない。
どんな顔をして会ったら良いんだろう。

腕に抱えた彼に渡す薬の入った薬袋を見つめる。
今はこの薬をしっかり飲んでもらうことーーー

患者の薬への意識は毎回変わる。
その意識をちゃんとその都度、明確に確認して間違っていたら元に戻してあげる。

それが僕の仕事だ。

拓也は人差し指でインターホンのボタンを押した。


ーやさぐれ男と弥右衛門(前編) 完ー
後編へ続く



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