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3.大和撫子と会津中将(前編)

握り締めた退職届に汗さえ滲まない。
それくらい、この会社には冷めたのだと思う。

愛社精神はそれなりにあったはずだった。
10年以上もこの会社にいたのに。

私が今しようとしてることは、今まで自分が信じていたものと縁を切る行為だ。でも、私の心の紐をプツンと切っていったのはそっちでしょう。

転職は恋愛と似ている。
価値観が合って自分が居心地良くいられる場所を求めて、またそこへ羽根を広げて飛んでいく。
この場所じゃなかった、と絶望と喪失感は全てそこに置いていく。

「私の居場所はどこにあるんだろう」

楠木友里恵は、静かにドアノブに手をかけた。


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薬剤師という仕事が好きなのだと思う。

調剤して鑑査して、時には※疑義照会(処方で疑わしい点がある場合、薬剤師は医師に問い合わせをする)して、薬を渡して患者さんとお話する。

薬を通して色んな人間関係が形になって見える。
それが楽しかった。
そして、この職業は縁の下の力もち。
心からこの仕事に誇りを持っている。

7割が女性のこの業界は産休なり育休なり入れ替わりもあるし、人がまだまだ足りない地域も多い。
当時、友里恵は自分の会社で数少ない女性エリアマネージャーを目指していた。

友里恵に一度、昇格の話が出た。
薬局管理者からエリアマネージャーへ。

長年をかけて仕事を頑張ってきた甲斐があったと、嬉しくて空も飛べそうなくらい舞い上がった。
その時は、浮かれるに浮かれて日帰りで住まいの東海から京都へ向かい知人と浴びるほど飲んだくらいだった。

「やっと、私が頑張ってきたことを認めてもらえる」

友里恵の昇格について、会社本部で会議があったという次の日、上司と面談があった。
友里恵は期待を胸に面談に臨んだ。

しかし、上司の口からは嘘のような言葉が出た。

「楠木さんの昇格は一旦保留でお願いします」

言われた言葉に対して一瞬理解が出来なくて友里恵は一呼吸おいた。

「どういうことですか?」

なんとも言えない声色で上司に聞く。
上司はあぁー、と言わんばかりの顔で返答する。

「【前例がない】んですよ。」

50代女性でエリアマネージャーになってる社員はいる。30代半ばでエリアマネージャーになった女性の例はない。だから前例がない貴方の昇格は保留にせざるをえない、と。

男尊女卑とはこのことか。
今の時代でこんなことあるのか。

男性ではこの年代でエリアマネージャーに昇格してる人材なんて沢山いるのに。

自分の身近でこんなことが起こるだなんて、想像なんか出来ただろうか。

50代で自分がエリアマネージャーになったら、また目線が変わってしまう。私は今この時にその場所にいきたい。その為にずっと努力してきたのに。

その時、現場の不満と共に友里恵の中で自制していた不満が混ざり合わさって、一気にクツクツと胸にこみあがってくる。

「私はこの結果に対して納得がいってません」

この一言しか出なかった。


私の実力は見てもらえていない。
会社の方針で会社の考えで包囲された世界で羽根を広げられるはずがない。 

友里恵の中で退職というワードが頭の中によぎった。

よぎったものの「いや、ここはまだ粘ってみよう」という気持ちもあった。

「ちゃんとした理由がなければ、私、納得出来ないのでそこのところ、ご返答よろしくお願いします」

そう上司に伝えて部屋を後にした。


後日また面談で呼ばれたが、答えは同じだった。

「前例がない」

この会社でエリアマネージャーに上がって現場で困ってる誰かを助けてあげたかった。

前例がないの一点張り。
上は何にも考えてくれなかった。
いや、考えようともしてくれなかったのかもしれない。

会社のこれからの未来も。
一社員である私のことも。


前例がない。で、この会社はずーっとそのままでいるのだ。
そんな未来が見えた。

鳥籠の中にいるつもりはない、と決断が出来た。
友里恵の口からついにその言葉は出た。

 

「考えて頂けないのでしたら、私がこの会社にいる意味はないです。退職します」


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友里恵が退職届を出した数日後、よく飲みに行っている職場の後輩から仕事中に声をかけられた。

「友里恵さん、本当にうちの会社辞めちゃうんですか?」

彼女の声はどこか寂しそうだった。


「別に私がいなくても、この会社は回るしね。大丈夫。呼ばれたら飲みに駆けつけるからさぁ」


友里恵さんが大量のビール煽るのそんなに見れなくなりますね、と後輩は分包機をいじりながら呟いた。

彼女はよく私に仕事の相談を持ちかけてきた子だ。
よく飲みに行ったりもしたし、そこそこ仲が良かった。
自分が上に昇れない世界は現実的に後輩を助けることも出来ない。

この会社を辞めると決めたからには後悔はない。
ここにいても何にも、変わらないのだ。

退職することは決まったものの残り3ヶ月はこの会社にいることになる。
鳥籠の中から出るとは決めたけれど、転職先なんてまだ考えていなかった。

こんな宙ぶらりんな状態の人間をどこの会社が雇ってくれるだろうか。


「はぁ~」と大きなため息をつきながら帰路につく。
家に着いて腕から鞄を下ろすなり、インターホンが鳴った。

「宅配便です」

(宅急便?何か頼んだっけ?)

友里恵がドアを開けると宅配業者の男性が細長い段ボールを持って突っ立っていた。

ほいっ、と言わんばかりに彼はその段ボールを友里恵に渡してサインをもらうなり去っていった。


「この細長い段ボール…酒?」

ゴシック文字で段ボールの側面には「谷芯」と印字されている。
宛名には酒屋の名前だけ。差出人の名前はない。

(こんなテンション下がる日は酒でも飲んでおけってか。もう)

段ボールを開封して中身を取り出す。
薄い水色の清楚な瓶が見えた。
持ち上げてみるとラベルには純米大吟醸「ゆり」と書いてあった。

「日本酒……?!」

ラベルの裏を見てみると福島県会津若松市のお酒であることが分かった。
鶴乃江酒造?聞いたことない蔵だし、どこの蔵だよ。

友里恵はビールこそ沢山飲むが、日本酒もそこそこ好きだった。以前、関西で勤めていたときは酒蔵の「お酒の会」に参加するくらいの熱量で日本酒を飲んでいた。

でも誰がなんで友里恵の為に、このお酒を送ってくれたか分からない。

「とりあえず、冷やすかなぁ」

純米大吟醸は冷やして飲む一択だよなぁと言いながら冷蔵庫に瓶を仕舞う。

段ボールを潰して処理しようとした時、その紙はペラっと床に落ちてきた。

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【楠木 友里恵 様】

純米大吟醸「ゆり」は会津若松市の鶴乃江酒造で造られたお酒です。あの有名な銘柄「会津中将」を造ってる蔵でもあります。
酒造りの魅力は、甘・辛・酸・渋・苦の微妙なバランスが醸し出す味わいです。作り手の技術、惜しまない手間には素直に反応し、心のおごりは許されない厳しい世界です。

酒蔵はかつて女人禁制。しかし女性ならではの繊細な気配りをいかし、杜氏や蔵人との協力のもと、優しいお酒が誕生しました。

「和醸良酒」から生まれた「ゆり」
優しい味わいを堪能してください。

なお、この商品は貴方様のご友人からお代を頂き配送しております。

心置きなく会津のお酒をお楽しみください。

酒屋・谷芯

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友里恵は落ちてきたお酒の紹介用紙に書いてある文章一文字一文字を全て自分の胸に掬い上げるように読んだ。

女人禁制の世界。
私のいる世界はそこまで辛くはなかったけれど、この蔵の杜氏さんはかつてのそんな世界を背景に持ちながら女性であることを強みに仕事に挑んでいったんだ。

悔し涙が目尻に滲んだ。

「私はこんなところで立ち止まってくよくよしている場合じゃない」

寂しそうな後輩の顔。
残していくスタッフの顔が思い浮かぶ。
胸がギュッと潰されるように苦しくなる。
でも前に進まなきゃいけない。

私のことを認めてくれて尊重してくれる、そういう場所にいこう。
私と同じ目線で話してくれる上司の側で学んで、私もいずれは現場を支えていきたい。

心にそう決めたそのとき、友里恵の携帯電話からリズム感あるLINE音が鳴り響く。友里恵は慌てて電話に出た。

相手はSNS繋がりで飲みに行くこともある薬剤師の船越晴之だった。

「友里恵さん、元気?この間、京都来てくれたでしょ?あれから仕事の話また聞きたいなって思ってさ。近いうちに一緒に飲もうよ」


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関西で100店舗を越える薬局を構えるyou薬局株式会社。
その拠点は主に京都である。
船越晴之は薬剤師、かつ、そこの会社の専務だ。

地元、丹後をこよなく愛し、仕事もバリバリこなす。
そして大の酒好きである。
丹後の酒蔵で彼が知らない蔵はないし、日本酒も開封後は瓶から空気を抜いて保管、毎日飲酒するばりの愛酒家だ。

友里恵が彼に呼ばれたのは彼の地元で酒類の持ち込みが出来るお洒落なイタリアンレストランだった。

「久しぶり~!丹後まで来てくれてありがとうね」

手をぶんぶん振る船越。お酒を飲める嬉しさが彼の顔に溢れ出ているのが分かる。

「すみません、私の為に時間作ってもらって…忙しいのに」

友里恵は申し訳なさそうにお辞儀する。

「いいの、いいの!家族にお願いして時間作ってもらったし、友里恵さんこの間の電話凄く落ち込んでたように感じたから、仕事で何かあったのかなって」

メニューを見ながら船越は気前よく返答する。

「実は会社を退職することになって…エリアマネージャーの話なくなっちゃったんですよね。女性で30代半ばでそのポジションに就くのはちょっとって…。まぁ、しょうがないのかなぁって思います。ははっ」 

友里恵が軽く笑い飛ばしたが、船越はそれを流しはしなかった。

ふぅ、と一呼吸置いてから彼は言った。

「時代は変わってきてるのにね。友里恵さんの会社は、友里恵さんが上にくることでせっかく会社そのものが変われるチャンスだったのにそれを逃しちゃったんだな…」

あんまり、自分のことをこう言ってもらう機会は少なかった。会社外でこんなふうに言ってくれる人がいるのは友里恵にとって有り難かった。

「そ…そんなふうに言って頂いてありがとうございます。でも、結局私の実力不足ですし」

そう返答しながら、グラスを船越に渡す。


友里恵が持ち込み可能なこのお店に持ってきたのはこの間届いた会津若松のお酒、鶴乃江酒造の「ゆり」だ。
入店時、店員に渡しておいて急冷してもらっていたのが出てきた。

「会津若松のお酒か。友里恵さん日本酒よく知ってるね」

おおっ、と言わんばかりの顔で船越のテンションはぶち上がりだ。

「知らない福島県の酒屋から差出人の名前なしで届いて、1人で飲むの恐くて。今日持ち込み可能だって話だったから持ってきちゃいました」

それを聞いた船越の目が見開いた。

「もしかして谷芯って酒屋じゃないか?」

お酒が注がれたグラスから友里恵の視線が離れる。

「船越さん、知ってるんですか?」 

ええ、と頷く船越。

「SNSの薬剤師グループで日本酒大好きな夫婦がおるんだけれど、そこの夫婦から送られてくるお酒が必ずその福島県の谷芯って酒屋からなのよ。友里恵さん、その夫婦のことは知ってる?」

そういえば…と友里恵は思い出したような顔で答える。

「何回かお会いしたことはあります。たまに一緒に飲みますし」

そうなのー?!と船越は驚いている。

「まあ、怪しい酒屋じゃ無いと思うし大丈夫じゃないかな。結構ね、レアな酒送ってくれるのよねぇ」

ちょうど店員が前菜の料理を運んできた。
鯛のカルパッチョだ。
彩られた京野菜が円盤状に並べられ鯛の切り身を囲い込み美しく盛り付けられている。

「白身魚のカルパッチョ…華やかな香りなのに、スッと優しさのあるキレを出すこのお酒にピッタリじゃないか。いいねー!イタリアンにも合う日本酒なんだよね」

テンションが上がりっぱなしの船越を見て友里恵はここまで船越が日本酒を好きだということを初めて目の当たりにした。

でも、なんで「ゆり」という銘柄なのだろうか。
別に百合の花が描いてあるラベルでもないし。
メインの会津中将とはかけ離れたネーミングだ。
友里恵は疑問に思っていた。


「船越さん、このお酒の名前って…」


船越は察したように回答する。

「僕もここのお酒は飲んだことあるから少しだけ知ってる。杜氏さんが女性なのは、友里恵さん知ってるよね?杜氏さんの名前が「ゆり」さんなんだ。友里恵さんの名前とちょっと似てるよね」

そう言いながら、カルパッチョの鯛を口へ運んだ。

なんて、カッコいいお酒なんだろう。
自分の名前をお酒の銘柄にしていて、かつ世間に広げていって。 
私もこんなふうに自分を貫き通したかった。
でも、新しい場所でこんなふうになれるのかな。


友里恵はお酒を飲みながら、不安と希望が要り混ざったなんとも言えない感情を飲み込んだ。

何かに気づいたのか、一瞬静かだった船越が口を開く。

「友里恵さんは、さっき自分の実力不足なんで。って言ったでしょう?それは違う。自己肯定が低すぎじゃない?ただ、羽ばたく場所が違っただけなのに」


あのさ、と船越は続けた。

「京都まで車で来てたよね?明日の午前中、仕事前に妻からお使いを頼まれてるんだ。ちょっと伊根まで付き合ってもらっていいかな。友里恵さんに見てもらいたいものがあるんだ」


「伊根?」と友里恵が聞き返す。

初めて聞く地名だ。
どうやら、京都の海沿いらしい。

ここ数年「伊根の舟屋」で有名になり写真家やSNS映えを狙う若者に人気の地域とのこと。
そんな場所で船越は友里恵に何を見せたいのか。

「明日、天橋立駅に10時に集合ね。僕が車で先導するよ。12時までにオフィスに戻らなきゃいけないから、それまでなんだけれどさ。よろしく」


ニコニコしながら船越はグラスに入った酒を煽った。


  ー 会津中将と大和撫子  (前編)  完  ー


後編へ続く





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