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4.女神とロ万(後編)

笠松は病棟に行ったきり、半日帰ってこなかった。
美咲も他の薬剤師スタッフも自身の業務がある。笠松からの連絡、報告が薬剤部にくるのを待つしかない。


美咲のピッチに救急室から連絡があったのは午後の13時すぎだった。

「相沢です。…笠松くん?そっち大丈夫だったの?」

笠松の疲れきった声がピッチから聞こえた。

「大丈夫でした!患者さんに必要な薬剤分、無事に看護師さんにお渡し出来ましたし。あれから救急室の看護師さんと一緒にメチャクチャ探して無くなった疑惑のソセゴン注射液も別の場所から見つけました」

別の場所…?美咲は気になって笠松に問い質す。

「別の場所ってことは金庫じゃない場所にあったってことなの?」

はい、と返答後、笠松は続けた。

「救急室の金庫の真後ろ、絆創膏とか脱脂綿が入ってる引き出しに何故か入っていて…本数もロットも合っているので間違いないと思います。昨日巡回して管理簿見た時はあったので、僕が誤って外に出したのを誰かが引き出しに入れちゃったのかなって…御迷惑おかけして申し訳ないです。インシデントレポート、今日中に書きますね」

今から薬剤部に戻ります、と最後に一言聞こえて電話が切れた。

美咲は思い立ったかのように、近くにいる薬剤師スタッフを呼んだ。

「ごめんね、お願いがあるんだけれど、笠松くん帰ってきたらすぐお昼休憩に入れてあげて。その後、病棟の服薬指導に行くように話してもらっておいていいかな?あと、※DI室(医薬品情報管理室)って午後使う予定ないわよね?」

使う予定ないです、と周囲スタッフの返事。

「分かった。ちょっと今から小一時間、私が使うので入らないように他スタッフに周知しておいて」

ひとしきり指示を出した後、美咲は休憩室に向かった。
休憩室では歩実が1人で自習していた。

藤本さん、と呼ばれる声で歩実は顔を上げる。
休憩室入り口に立っている美咲の姿が歩実の瞳に映る。美咲の声はその後に一言続く。


「ちょっと今から私とお話しよっか」


ーーーーーーーーーーーーーーー

美咲が歩実を連れてDI室に入ったのはそれから数分後だった。DI室は薬剤師にとって重要な役割を果たしてる部屋だ。

何か調べ物があれば、美咲や他の薬剤師スタッフはこの部屋にある本や資料で調べ物をする。
このDI室の本の半分は美咲の私物である。

長方形の木のテーブルが真ん中にあり、本がびっしり入った棚がそれを囲むようにズラリと並ぶ。

ここ座っていいよ、と美咲は歩実を椅子に座らせ、長方形のテーブルの向かいとなる位置に美咲も座る。

物珍しそうに棚を見回している歩実。
少し間が空いて美咲がふと話を切り出した。

「救急室のソセゴン注射液、真後ろの引き出しに隠したのって藤本さんよね?」

直球ストレートな質問に歩実の瞳が大きくなる。
美咲はその瞬間を見逃さなかった。
少し間があってから、歩実の口が動く。

「どういった経緯で、私が隠したと思ったのですか?」

美咲は歩実をジッと見つめて言葉を返す。

「私の妄想だけで今は話してるわ。昨日、笠松くんの病棟薬剤管理の巡回に藤本さんが同行していくのを見てるしね。」

歩実はいやいや、手を横に振った。

「相沢先生、私が笠松先生の病棟の薬剤管理巡回に毎回同行してるのは事実です。でも私が隠したなんて証拠がどこにもないのに、そういうことを言うのは冤罪というか、ハラスメントに近いんじゃないんですか」

クスクスと笑う歩実に美咲は問いかけた。

「知ってる?」

美咲の問いかけに歩実の顔が一瞬、強ばったのが分かった。

「笠松くんってこの病院にきて結構長いのよ。こういった薬剤管理トラブルによるインシデントは今まで1回も起こしたことがない。それは彼が注意深い性格だからね。彼の癖でそういった薬剤を確認する時は絶対金庫から外に出さない。藤本さん一緒に同行していたでしょうけど、気付いた?」

歩実の肩が身動いだ。
何も答えない彼女に対して美咲は続ける。

「笠松くんが看護師さんあたりに話しかけられて金庫から一瞬目を離したりでもした隙に、その後ろにいた藤本さんがソセゴン注射液を救急室の引き出しに隠すことってことは出来るわね」

だからっ…!
歩実の声がDI室に響いた。

「証拠もないのに、そんなこと言わないでくださいよ」

あらあら、と軽く制する美咲。

「そんなに大声出さなくたって良いじゃない。全部、私の妄想話かもしれないし。あと私さっき言ったでしょう?【今は】妄想だけで話してるって。誰も証拠がないなんて言ってないじゃない」


美咲の発言を聞いた歩実の顔色が変わった。
血の気がサーッと引いていく、というのはこういった現象なのだろうか。

「この病棟には救急室や各外来の一部の部屋を含め、クレーマー対策も兼ねて防犯カメラが仕込んであるの。最近は物騒だからね。分かりづらいところに吊るしてあるから、気付かなかったでしょ。確認したら一発よ」

あっ………と歩実の口から短い声が出た。
もう逃げられない。
そう観念したかのように黙りこむ。

彼女が膝の上でギュッと握った拳が見えた。
下を向いて顔を上げない。しばらくして、彼女はシクシクとすすり泣き始めた。

救急室のソセゴン注射液を引き出しに隠したの私です、と小声で言ったのが聞こえた。

「なんで、あんなことしたの?薬が見つかったから良いけれど、どれだけのことしたか。賢い貴方なら理解しているはずよね?」と美咲は歩実に目線を合わせて問いかける。

涙目になりながら歩実は答えた。

「だって、相沢先生に教えてもらいたかった。笠松先生がトラブルか何かで私から手が離れれば相沢先生に面倒見てもらえるって思ったんです。相沢先生、持ってるんですよね?実務実習指導薬剤師の資格」

想定外の理由が返ってきた。


確かに美咲は指導薬剤師の資格を持っているが実習生を実際に面倒見たことはない。資格を取得したのも数年以上前の話だ。

資格を取得した直後、薬剤師スタッフがこぞっと辞めていったり病院の体制が変わったりトラブルが多発した。
当時、美咲はこの薬剤部をまとめて引っ張っていくことに必死で実務実習どころではなかった。

何故、歩実がそんなことを知っていたのか。

「笠松先生が言ってたんです。それでいて相沢先生は凄い先生なんだって。病院のスタッフや患者さんの為に走り回って遅くまで残って仕事して、シングルマザーでお子さんいて大変なのに。主任になった今でも自分の仕事こなしながら、僕ら薬剤師スタッフ全員のことをちゃんと見守ってくれてるって。自慢気に…言うから」

言葉を絞り出すように歩実は話を続けた。

「なんで、教えてくれるのは相沢先生じゃないんだろう、って。笠松先生も指導薬剤師は持ってるし確かに色々教えてくれるけれど、頼りないというか気弱というか。別にこの先生の下で学んでも。って思っちゃって」

それは何にも知らないだけよ、と美咲が間髪入れずに一言被せた。
歩実が笠松のことを無視したり、彼の話を聞かなくなったりした理由はここが根元だろう。

「藤本さん、笠松くんが患者さんと接してる姿を見たことないでしょう。いつも彼が病棟で服薬指導している時は自習だもんね。本当はもう少し時間をおいてから見学してもらった方がいいと思ったのだけれど」

まぁ、いいわ。と美咲は立ち上がり、くるっと歩実側にまわったと思ったがそのままその先にあるDI室のドアに手をかけた。

「ちょうど5階の心臓内科の病棟で笠松くんが服薬指導をしている時間帯だから、見に行きましょう。それからイメージを決めてもいいでしょ。彼がどんな薬剤師なのか。」

美咲はドアを開け、戸惑う歩実をDI室の外に誘導する。
DI室を出て他薬剤師スタッフに「ちょっと病棟行ってくるね~」と声をかけ、歩実を連れて薬剤部を出た。

ーーーーーーーーーーーーーー


歩実が薬剤管理の巡回以外で病棟に行くのは初めてだ。
陸の孤島と言ってもいい薬剤部から通路が一本繋がっている円柱状の建物に足を踏み入れる。外来は一階や二階に位置していた為、何回か来ている場所。

歩いている通路が白からクリーム色の通路に変わり突き当たりを右に曲がるとエレベーターだ。

美咲が上矢印のボタンを人差し指で押し、エレベーターがくるのを待つ。患者さんや他スタッフが行き交う通路は妙な緊迫した空気が漂う。

エレベーターに乗り込み目的地の5階のボタンを美咲の指が押すのが見えた。静かにエレベーターが上がっているのが分かる。

歩実にとってエレベーターの上は未知の場所。
初めての病棟。

エレベーターのドアが開く。
すぐ目に入ったのはナースステーションだった。

ベテランの看護師だろうか。
「あら、相沢さん」と、中年の白衣の女性がナースステーションのカウンター越しに声をかけてきた。

「貴方が直接病棟にくるなんて珍しいわね。どうしたの?」

その女性の問いに美咲は「実習生の病棟見学で」とニコニコしながら答え、そのまま彼女に問う。

「うちの笠松、見ませんでした?」

ああ、と言いながら彼女は通路の奥を指差す。

「502号室に入ったのさっき見たから、まだ病室でお薬の説明してるんじゃないかな?」

ありがとうございます、と美咲の会釈に続き、歩実も彼女に会釈してナースステーションを後にした。

502号室のドアは空いていて、中から笠松の笑い声が聞こえた。時折混ざる年配の女性の声。

美咲にシーッと指で「静かに」の合図を受けながら歩実はこっそり覗きこんだ。
ベッドのカーテン越しに見える患者の影とカーテンから半分見える笠松の顔。薬の説明はもう終わったようだ。

「いやー、笠松さん、私が入院したときに他の病院でもらったお薬に気付いてくれなかったら、あの検査、危なかったんでしょう?とても助かったわ」

笠松は、ふふふと笑って返す。

「僕のお陰なんかじゃないですよ。お薬手帳ちゃんと入院したときに持ってきてくれてたじゃないですか。あれがあるだけで僕らどれだけ助けられるか。薬を服用していた日も覚えてくれていたので、検査課と先生に連絡して日程ズラすことが出来ましたし」

笠松の手に女性患者のお薬手帳が握られているのが見えた。

あのね、と不安そうに女性は笠松に訴えた。
笠松は何かありました?と真剣な眼差しで返事をする。

「私、もう今日で退院じゃない?以前もらってた他の病院のお薬もここの病院でひとまとめになって一部お薬が変わったでしょう?かかりつけの薬局はあるけれど私今の病気の状態を薬局の薬剤師さんに上手く説明が出来るか分からないし。笠松さんに説明してもらった副作用の症状、覚えていられるかしら」

そう言ってカーテン越しの女性の影が不安げに揺れる。
笠松はパラパラとお薬手帳を指先で捲り、貼ってあるシールを指差す。

「もしかして、この人がその薬局のかかりつけ薬剤師さんですか?」

笠松の指先には【望月颯】とお薬手帳にフルネームで押された朱色の印鑑。

「ええ、そうなんです。優しい人でね。お薬のことも詳しいから、入院前に分からないことがあったら聞いていたんです。でも私、大きな病気しちゃったでしょう。ちゃんと彼に説明出来るかしら」

うーん…と一瞬考えた後、笠松は「じゃあ、こうしましょうか」と女性に声掛けた。

「もし、宜しければこちらの薬剤師さんに僕、連絡入れておきますよ。大きな病気をして入院していたこと、他の病院で出ていたお薬をこっちで一括にしたこと、お薬が変わって副作用が気になってるってこと、伝えておきます。どうでしょうか」

笠松の提案に女性は顔を上げた。

「本当に…本当にいいの?笠松さんに迷惑かけちゃうけれど…」

はい、と頷いて笠松は答える。

「実は入院される前に、この薬剤師さんに他の病院で前回の手持ちのお薬がどれだけあったかっていうのを確認する為に連絡とっていたんです。なので、お話は早いと思いますし、お薬のことは僕のお仕事なので気にしないでください」

ニパッと笑う笠松の手を握り、女性はありがとう、本当にありがとうと礼を言った。

「今は薬局でフォロー制度というのが出来まして。お薬の副作用や指示通り飲めているか等を薬局で電話やアプリなどの連絡手段を使って確認してくれる制度があるんですよ。薬局に相談すればきちんとやってくれます。そういうのは遠慮なく頼ってくださいね」

そう告げて一言、お大事にしてくださいねと笠松は腰を上げた。


「やっぱり笠松くんよね~患者さんに対してのフォロー抜かりないわぁ」

美咲が小声で呟いたのは歩実の耳にも聞こえた。
美咲と歩実は502号室のドアから食い入るように笠松と女性患者のやり取りを観察していた。

2人して笠松と患者のやり取りを見るのに夢中になっていた為、服薬指導が終わった笠松が出口に足を向けるまでの時間をそこまで長く稼げなかった。

(げ……こっちくる…ヤバっ…)

美咲の思考回路よりも笠松の退室の方が早かった。

「2人とも、こんなところで何してるんですか?」

きょとんとした顔の笠松。
あちゃー…とも言いそうな顔の美咲とそっぽを向いて見なかったふりをしている歩実。

「笠松くんがちゃんと仕事してるか見にきたのよ。藤本さんと2人で」

笠松が目を見開いて眉間にシワを寄せる。
「えええ?!酷いですよ!ちゃんと仕事してますし」

ちょっ、廊下響くからそんな大きな声出さない!と小声で制する美咲。そっぽを向いていた歩実が、ふと「笠松先生」と笠松の前に一歩出た。

「課題あと少しで終わるので、見て頂いても宜しいですか?あと…」

一呼吸おいて歩実は言った。

「さっきのやり取り見てました。あの患者さんの薬は何が出ていたのか、笠松先生がどうしてあのようなフォローを患者さんにされたのか、知りたいです。笠松先生の元でカルテを閲覧させて頂けないでしょうか。勉強させてください」

静かに笠松に頭を下げた。
歩実の態度の急変に笠松は動揺を隠せない様子だったが、おどおどしながら返事をする。

「あ…ああ。良いですよ。まだ5階の服薬指導が何件かあるから、それからでも良いかな。藤本さんの定時に間に合うよう頑張るから」

しっかり頑張ってきなさいよぉ、と笠松の背中をポンと叩いて送り出す美咲とそれを見つめる歩実。

廊下の奥に笠松の後ろ姿が消えていく。
美咲はエレベーターの方向へと踵を返した。
後ろで歩いているであろう歩実の声がした。

「相沢先生、すみませんでした。笠松先生のイメージ勝手に自分の中で決めて。何にも知らないのに生意気なことやって」

美咲は立ち止まって振り返った。

「本当よ」

再び歩きだすも、美咲はわざと歩幅を縮めて歩実と並んだ。

「確かに私は指導薬剤師を持っている。隠していた訳じゃないわ。資格を取得した時はこの職場が凄く大変な時期でそれどころじゃなかった。私が薬剤部を立て直している間に笠松くんが病院に新卒で入ってきて、いつの間にか自分が主任になっていた。でも私は今、やれと言われても指導薬剤師という仕事を出来る気がしない」

なんで、という歩実の問いに美咲は首を横にふる。

「気付いてしまったのよ。目線を合わせて個人と向き合う優しさと情熱、笠松くんにはあるけれど私にはない。指導薬剤師をやりたいって彼が話を持ってきて私が忙しいから無理って蹴っても投げても諦めないで何回も申し出てきてさ。僕が責任を持って面倒見ますから!薬剤部の仕事を学生に見てもらいたいんです!って真っ直ぐな姿勢を見てからね。私は薬剤部を統率して仕事を円滑にやれるように周りにフォローを入れる仕事の方が合ってる。人には向き、不向きっていうのがあるのよね」

ふうーっとため息をついて、美咲は肩を撫で下ろした。エレベーターの下矢印のボタンを押す。

「藤本さんはさ、日本酒好き?」

いきなり何を言い出すんだこの人は、とでも言いそうな顔で歩実は美咲の顔を見る。

少し間があって歩実の口から返答がくる。

「日本酒、大好きですけれど」

奇遇ね☆私もなの、とニッコリする美咲。

「私が大好きな日本酒があるんだけれどね、福島県の南会津地方、花泉酒造さんが造ってるロ万ってお酒知ってる?」

歩実は、うーんと考えて、心当たりがなかったのか首を横に振った。

「カタカナの【ロ】に一万円札の【万】って書くのよね。試作のお酒を造っていてその銘柄の名前がなかなか決まらなくて凄く悩んでいた時に、お酒が入ってるタンクに書かれてた【一号】の【号】が【ロ万】と読めたことが始まりなのよ。杜氏は酒造りは浪漫だってよく言っていたこともあって、そのままお酒の名前になった。そして、ロ万って商品がこの世に出たの」

静かに頷きながら耳を傾ける歩実を横目に美咲は続ける。
エレベーターが上がってきて、ドアが開いた。
誰も乗っていない空間に2人で乗り込む。

「病院薬剤師なんて地味で大変なのに給料は安い。そんな意見もあるけれど、その過酷さの中で見つけられる希望は沢山あるからね。さっきの笠松くん見て藤本さんはどう思ったか、分からないけれど。花泉酒造と同様、病院薬剤師も浪漫を持って仕事してるって言ってもいいと思う。私は好きよ、この仕事」

やりがい搾取なんて言われないように給料上がればいいのにね、なんて最後に美咲は不貞腐れた顔で呟いた。

エレベーターが一階に着いてドアが開いた。
美咲が先にエレベーターを降りる。
歩実も後ろに続く。黙っていた歩実の口が開く。

「お酒の名前の由来とか考えてもみなかったですし、病院薬剤師なんて安月給の過酷労働だって思ってましたけど…」

美咲が静かに後ろを振り向いた。

「気持ち入れ換えて、明日から頑張ります。宜しくお願いします」

歩実の目の色が病棟に来る前と違うことに気付いた。その歩実の意気込みに美咲は吹っ掛けるように伝える。

「笠松くん、多分ソセゴンのこと、気付いてるよ。あと、いつも仕事が残ってるからってちょっぴり残業してから帰るの、藤本さんの課題作ってから帰ってる。ま、別に藤本さんが知らなくてもいいことなんだけどね」

それを聞いた歩実は少し驚いていたように見えた。
気付かないふりをして美咲は時計を確認する。

「私、これから検査課に書類取りに行かなきゃいけないから。藤本さん、実習レポートあるでしょ。笠松くんが薬剤部に帰るまでに仕上げておいてね。ここから薬剤部帰れるよね?」

はい、と歩実はハッキリ返事をした。

よろしく~と、美咲が踵を返して廊下の奥へ歩いていくその背中を歩実は消えるまで見つめていた。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

笠松と美咲が会話したのはそれから数日後だった。
たまたま廊下で会ったところを美咲は笠松に捕まった。

「主任、ちょっと…ちょっと、話せますか?」

美咲は口を尖らせた。

「え?これから入院患者の手持ちのお薬確認に行かなきゃいけないんだけど、何?」

美咲の殺伐オーラに耐えながらも笠松はまあまあと暴れ馬を制するかのようなリアクションをする。

「藤本さんから謝罪されました。主任、病棟に藤本さんと一緒にいた時、何か言ってくれたんじゃないんですか?業務に対する質問が一気に増えたし、おまけに笠松先生が使ってる薬剤の本参考にしたいんで教えてくださいって…」

美咲はビシッと笠松の顔の前で人差し指を立てる。

「だいたいね、笠松くんは嘘つくのが下手すぎるのよ。何年、私と一緒に仕事してると思ってるの。あの電話の内容で誤魔化せたとでも?本当に薬無くなってたらどうするつもりだったのよ。あと、私の前で学生庇おうなんて一億光年早い」

笠松は、やっぱり…とでも言いそうな顔をしながら美咲に礼を言う。

「いつも、本当にありがとうございます。藤本さんに病院実習とても勉強になったって言ってもらえるように僕、頑張ります」

笠松の礼をサラッと聞き流しながら、私もう行くわよ、と投げやりに手を振ってその場を後にする。

足早に歩きながら美咲は思ったのだ。
やっぱり、私は指導薬剤師じゃなくてこっちの仕事の方が向いてる。

ーーーーーーエピローグーーーーーーー

藤本歩実の病院実務実習が終わって半年が経過した。

霞ヶ丘酒井病院の薬剤部は歩実の大学の日丸大学薬学部から今期、3人の学生実習を引き受けることになった。

日丸大学薬学部の実務実習担当コーディネーターから「そちらの病院実習がとても勉強になったと、うちの特待生が言っておりましてね。是非、実習生の人数枠を増やして頂けないでしょうか」と交渉があったのはつい3ヶ月前の話だ。

「藤本さんが特待生だったなんて話、実習終わった後に知りましたよ…1人ならまだしも、3人も受け持つなんて自信ないですよ」

DI室に実習資料の束を持ち込んで笠松が重そうにため息をつきながら入ってきた。

美咲はDI室の椅子に座って机の上の書類を一枚一枚確認していた。そして、弱音を吐いている笠松の一言を突っぱねる。

「大学の実務実習コーディネーターからも太鼓判を頂けたと言ってもいいんじゃないの?笠松くんがやりたいって言い出したことなんだから責任もってやりなさいよ」

笠松は悶々としながらしながら美咲に書類を差し出す。

「藤本さん本人から聞きたかったなぁ。病院薬剤師のイメージ、実務実習で何か変わったのかな」

机の上から用紙が一枚落ちた。
美咲がさっき一枚一枚確認していた書類だ。
気が付いた笠松が落ちた書類を床から拾い上げる。

美咲の目線が時計にいく。

「……時間。いいの?」

笠松の目が書類の中身に移る前に美咲はそう言って拾ってもらった書類を受け取った。

笠松は、え…?と言いながら時計に目をやる。

「あ!ヤバい。実習生3人もう病院の入り口に集合してる時間じゃないですか。僕、行ってきますね!」

DI室のドアをバタンと開けて、笠松は小走りで出ていった。

「本人の口から聞きたかった、かぁ…。運が良ければまた近いうちに聞けるんじゃないの?」

笠松が拾ってくれた【新卒就活試験の応募者リスト】と記載された書類。

それは霞ヶ丘酒井病院の薬剤部に就職したいと試験に応募してきた薬学生達の名前が印字されたものだった。美咲はそこに載っている藤本歩実の名前をジッと見つめる。

「あんなに病院薬剤師にはならないって言ってたのになぁ。藤本さんも笠松くんの熱意に負けたか」

美咲の口角が自然と上がった。見つめていた書類を机の上に放る。
もう笠松の耳には届かないと分かっていながら、美咲は誰もいないDI室で呟く。

「笠松くん。君のロマン、伝えたい人にちゃんと届いていたよ」


ー女神とロ万(後編)  完ー






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