見出し画像

#163 おおくす@長太

前回の記事では、三重県鈴鹿市にある大楠(おおくす)の写真を載せました。

 木の大きさを表現する写真、どれが一番良いでしょうか?

その1:近くでパシャ

画像1

 台風の影響で、向かって右側の枝振りが少し寂しくなっています。20年以上前に訪れた時には、もっと枝葉が空に両側伸びてより生命力感じました。木を守るために今は縄張りがあり、幹の根元には近づけなくなっていました。

その2:幹だけ撮影して、敢えて枝葉を撮らない

 子供が産まれたばかりの頃、この木の根元で大きな幹とまだ「つかまり立ち」のできない1歳の頃の長男を撮影して年賀状の写真として親戚に送ったら、思いのほか好評でした。小さな子供と枝葉の写っていない幹だけの写真は、「プライバシー」に配慮?して、ここには敢えて載せません。(本人の承諾を得ていないので、笑) その代わりに、昔は無かった立派な説明看板を載せておきます。

画像2

その3:遠く離れて、大きさの比較”目印”になる自動車と一緒にパシャ

画像3

 木の左下には自動車が写っています。車と比較すると、大クスがいかに大きいかがわかります。説明看板にもあるように、この木が立っている場所は田圃が一面に広がっている長閑な場所なので、かなり離れた近鉄名古屋線の電車や、国道23号線の車窓からフト見ると、遠くに大クスがドッシリと”鎮座”しているのがわかります。個人的には、この写真が一番この木の大きさを感じることができ、お気に入りです。木の大きさを感じるには、木が一番小さい写真が一番というのも面白い物です。

その4:小さな昆虫と一緒に、敢えてピントをぼかしてパシャ

画像4

 こちらは、前回の記事に載せた写真。

三重県鈴鹿市 長太の大クス(樹齢:推定1000年)前で撮影した てんとう虫(寿命:通常2か月).春の訪れのぽかぽか陽気に誘われて大クスを観に訪れたところ,たまたま腕に舞い降りた七星テントウ.体の大きさと命の長さが,大きく違う二つが,一つのフレームに収まったお気に入りの一枚.この後すぐに,羽ばたいて春の野原に飛び去りました.

その5:魚眼レンズでパシャ

 最近購入したGoProMaxで魚眼レンズ(広角)で撮影してみました。地平線が湾曲して、現地で見ている形式と違うので「面白い」写真です。絞りや、シャッター速度の調整とは違う、レンズの歪みが今まで感じたことがない演出をしてくれます。(エレキギターで言えば、エフェクターのような、ディストーションをかけてくれています。違う??)

画像5

 しかし、自宅に帰って改めて見てみると、”違和感”があります。「枝葉の広がり」がレンズの歪みでむしろ狭くなってしまっています。期待していたのは、「広がりの誇張」でしたが、実際には「矮小化」してしまっています。丸いものを細長く見せたい時には良いかもしれませんが、小さくなったら困る時には、”魚眼”はイタダケないことが分かりました。

大クスの”つながり”

 以前の記事にも書きましたが、地面の中にも地上の枝葉と同じくらいの”根張り”があります。

久しぶりに大クスを訪れてみて、地元の保存会の方が根元付近の地面が見学者によって踏み固められて木が弱らないようにロープで囲っていただけていました。きっと、木にとっては居心地がよくなったことと思います。地上の立派な枝葉を見ながら、見えない地下の根っこの張り具合を想像していました。

 自宅に帰ってから、うちの奥さんと久しぶりに子どもの写真アルバムを見返してみました。(昔のカラーフィルムで撮影して現像して印画紙にプリントしていた頃のアナログ写真というものです。今の若者たちには、お分かりではないでしょうが、、、) 大クスの根本で立ち上がれずに、母親がカメラの撮影者の私の後ろに後退りするのを呼び止めるかのように、手を伸ばしてニコッとした子供の写真がありました。年賀状として使ったあの写真です。

 今は二人の子供も遠くに住み、新型コロナでなかなか会うこともできず、たまにTV電話越しに元気そうな顔を見るくらいで、普段は声しか聞くこともありません。

オヤ? 「親」

 私が小学生の頃、「親という漢字は、木の上に立って見守ってくれている人ですよ。子供たちのみんなを、いつも遠くから見ていてくれて、困った時に助けてくれます。」と小学校の先生が教えてくれました。(へぇー、そんなもんかなぁー?)と小学生の自分は、不思議に思ったものです。

 今自分が親になってみて、あの先生が言っていた意味がよく分かります。自分の子供のことを1日に何度か考えることがあります。遠くの木の上に立ち、子供のことを気にかけて、「いざ」という時が来たら駆けつける、あるいは帰って来る場所を用意する、のどちらかが自分の仕事かと考えて日々います。

”根っこ”

 逆に、そんなことを考えるようになってから、既に亡くなった自分の父親が私が27歳まで学生として勉強していた時、あるいは卒業して就職してから、「どんな気持ちだったのだろうか?」と考えるようにもなりました。若い頃は、自分一人で大きくなった気がして(頭ではわかっていても、心の中ではまだその意味を理解していなかったと思います。)、ずいぶん偉そうなこと、若気(わかげ)の至りの恥ずかしいことを、たくさん親に言ったものだと今思い返しています。

 大クスの写真を見て、遠くに今いる二人の子供と、今はいない遠い昔の父と、目に見えない「つながり」”根っこ”を感じている今日この頃です。