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優しさ

“優しい人になりたい”
これはわたしがずっと思っていることのひとつ
みんなも思ってるのかな〜

人の言動と自分の体験を重ね合わせると優しい人はどう行動しているのか少し分かるよね、わたしは良くも悪くも人の事をめちゃくちゃ見てしまうから人一倍どんな事をすればどう受け取られるかは分かっている、あくまでもつもり

だからわたしはあの人のコレをしたら“優しい”って思われる気がする🎶とか情けのないことを思いながら行動してみる
それを自分がきちんと模倣できているかどうかは別としてね

仮に優しい人の真似をし続けたとして、その言葉と行動は誰かにとってしっかり優しさとして受け取ってもらえるのか。
それはわたしに知る余地は無いけれど、やっぱり心の優しさは伝わるものだと思う。
模倣の優しさより、意図せず出た優しさが1番あたたかいことに間違いはないだろうし。

わたしは誰かからもらった優しさの形をそのままコピペして使っている気がする、自分の優しさの形に編集しないそれって偽善の優しさじゃない?わたしって偽善者?

でも、せっかく優しくしたのに!みたいなことは思わないし別に見返りなんか求めてないよ
その人にとっての“優しい人”の部類にちょっとだけ入れてもらえたら良いなあ、なんてことは思ってみるけど、これってちょっと健気で可愛いじゃん!浅い見返りかもしれないけど

そもそも“優しさ”なんて人によって基準も受け取り方も違う曖昧なものだしただのお節介、迷惑、押し付けって思う人も少なからず居るだろうね。

優しさとはなんなのか、わたしの中に優しさを与えることに執着しない方が良いのかもという結論が浮かぶ
優しさを決めるのはあくまでも受け取った側なのだから、わたしが彼彼女の受け取る優しさを想像で決めてコピペで行動してしまっては、わたしの本当の優しさも枯れてしまう

まあ、わたしが大好きな優しくて嘘は絶対につかないおばあちゃんはわたしに“優しい子”って言ってくれるからそれで良いの、おばあちゃんにとってのわたしは優しい子なのだから。

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