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乞食【ショートショート小説】

N氏は街角で一日を過ごしていた。彼の姿はみすぼらしく、ボロボロの服に身を包み、顔には疲労と諦めの色が濃く刻まれている。足元には古びたカップが置かれ、その中にはわずかな小銭が散らばっている。いわゆる乞食と呼ばれる彼の生活は一見、底辺に見えた。

道行く人々は、彼を見ると顔をしかめたり、わざとらしく目を逸らしたりする。その無視や軽蔑の視線は、一瞬で彼の存在を否定するようだった。誰もが「彼のようにはなりたくない」と心の中で思っていた。

N氏はその日も、同じ場所に座り続けた。太陽が昇り、そして沈む間に、彼の周りを通り過ぎる無数の足音が響いた。時折、子供が親に手を引かれて彼の前を通り過ぎると、親は急いで子供を引き寄せ、「見てはいけない」と言うように促した。

夜も遅くなった頃、高級スーツに身を包んだ一人のエリート会社員が、疲れた表情でN氏の前を通り過ぎた。彼はふと立ち止まり、N氏をじっと見つめた。その目には、他の人々とは異なる何かが宿っていた。憐れみや軽蔑ではなく、むしろ羨望の色が浮かんでいた。
「あなた、毎日ここに座っているんですか?」と会社員は声をかけた。
N氏は顔を上げ、微笑を浮かべた。「ええ、毎日ここにいます。あなたは何かお困りですか?」
会社員はため息をつき、「いや、ただ...正直に言うと、あなたが羨ましいと思ってしまったんです」と言った。
その言葉にN氏は驚いたように眉を上げた。「羨ましい?私のような乞食を?」
「ええ、私には毎日が戦いです。会社でのストレス、終わりの見えない仕事、常に競争にさらされる生活。あなたはそんなものから解放されているように見える」
そういって、会社員は激しい出世競争の愚痴や家庭の不満、さらには将来の不安まで様々なことを口にした。日頃から優秀な姿を演じていることに限界が来ていたようだ。見ず知らずのそれも乞食であるN氏に何を話したところでリスクはなく、解決することも期待されないがそれでも話すことをやめることはなかった。
N氏は相槌を打ちつつ、しばらくの間、何かを考えるように沈黙した。そして、静かに口を開いた。「もし、あなたが本当に知りたいのなら、秘密を教えましょう。ただし、誰にも言わないと約束してくれますか?」
会社員は思わぬ言葉に興味津々でうなずいた。「もちろん、約束します」


N氏は周りを見回し、人がいないことを確認すると、低い声で話し始めた。「実は私は国の特殊なプロジェクトに参加しているんです。乞食としての私の姿は演技です。この姿を見せることで、人々に『ああはなりたくない』という感情を引き出し、彼らのモチベーションを維持するためのものなんです」
会社員は耳を疑った。「それは本当ですか?」
「ええ、私の仕事は人々に反面教師を提供することです。彼らが私を見て、自分の生活を見直し、もっと頑張ろうと思えるようにするためのものなんです。これも一種の社会貢献と言えるでしょう」

会社員はしばらく無言でN氏を見つめていた。彼の心には複雑な感情が渦巻いていた。エリートとしての生活は確かに疲弊する。しかし、この乞食としての生活が演技だとしても、日々を自由に過ごすN氏の姿に、どこか憧れを感じてしまう自分がいた。
「もし、私も同じようなことをしたら…」会社員は一瞬、そんな考えが頭をよぎった。しかし、すぐにその考えを打ち消した。社会的な地位、家庭、責任。それらを放り出してしまうことはできない。
「明日からも仕事を頑張ろう」と、会社員は心に決めた。そして、深く息を吸い込み、立ち上がった。

N氏はその姿を見送りながら、微笑を浮かべていた。「お大事に」と小さくつぶやくと、彼は再びその場に座り込み、カップを手にした。
通り過ぎる人々は相変わらず彼を無視し、軽蔑の目を向ける。N氏の言葉が本当かどうか、誰も知る由もなかった。ただの世迷言かもしれない。しかし、会社員の心には確かに何かが残った。そして彼は、その思いを胸に、明日からまた働く決意を固めたのだった。

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