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ボケ老人【AIショートショート】

N氏は、目が覚めたとき、自分の名前以外何も思い出せなかった。部屋には自分の持ち物が揃っているが、それらが自分のものであるという実感がまったくない。アパートの一室、他には誰もいない。何か自分のことが分かる資料が無いか探してみると、自動車の免許証にN氏の名前と年齢が書いてあった。どうやら65歳で丁寧を迎えたばかりのようだ。

不思議なことに、銀行口座には潤沢なお金が入っており、日常生活に困ることはなかった。しかし、それでも自分の過去が何一つ思い出せないことに苛立ちを感じていた。どこでどのように働いていたのか、友人はいたのか、家族はどこにいるのか――そうした疑問は次第にN氏の頭を締め付けていった。

記憶を取り戻したいという切望に駆られたN氏は、手段を選ばなかった。まず、名の知れた探偵を雇い、過去を調査してもらうことにした。探偵はN氏の住民票や古い書類、そしてかつての交友関係を調べたが、手掛かりはほとんどなかった。N氏の過去はまるで霧に包まれているようだった。

次に、N氏は催眠術師を訪ねた。深いトランス状態に誘導され、潜在意識に眠る記憶を引き出そうとしたが、これもまた失敗に終わった。記憶の扉は固く閉ざされ、まるで何者かが意図的にそれを封じたかのようだった。

そんな試行錯誤を繰り返すこと5年、N氏はついに諦めかけていた。毎日同じような日々が過ぎていく中で、自分が何者なのか知ることの意味さえ分からなくなりかけていた。あるいは、本当に孤独に過ごしてきたのではないかとさえ思ってしまっていた。

そんなある日、玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると、怪しげな男が立っていた。男はスーツを着ており、見た目は普通だが、その目にはどこか冷たい光が宿っていた。

「記憶の返済に参りました」

N氏は混乱した。「返済?どういうことだ?」

男はにやりと笑い、N氏に契約書を見せた。そこには、自分の記憶を担保にお金を借りるという契約が明記されていた。N氏はまったく記憶がないが、確かに自分の署名がそこにあった。

「あなたは過去の記憶を担保に多額の金を借りた。その期限が来たんですよ。返済していただければ、記憶をお返しします」

N氏は困惑しつつも、すぐに銀行口座を確認し、男に要求された額を支払った。男は満足そうに頷き、一枚のマイクロチップを手渡した。

「これがあなたの記憶です。お好きな時にどうぞ、耳の裏にチップを入れる場所があるはずです。」

N氏は驚き、耳裏を触ると確かにマイクロチップが入りそうな隙間があることに気づいた。好奇心と恐怖が交錯し、どうするべきか悩んだが、結局、意を決してそれを耳裏に差し込んだ。

瞬間、頭の中に電流が走るような感覚が広がり、途切れ途切れの映像が次々と蘇ってきた。N氏は驚愕した。彼の記憶は、過去の苦しみや痛み、裏切りに満ちていた。事業の失敗、愛する者の死、そして自らの手で犯した罪……。それらはすべて、彼の精神を蝕むには十分すぎるものであった。

「こんなものを……取り戻すんじゃなかった」

N氏は絶望し、再びその記憶を消し去りたくなった。そこで、彼は再び例の怪しげな男を訪ねた。

「もう一度……記憶を担保に金を借りたい。すべての記憶を、再び消し去りたい」

男は薄く笑い、N氏の要求をあっさりと受け入れた。再びN氏は記憶を失った。


その後、N氏は有料老人ホームの一室で、N氏は静かに日々を過ごしていた。彼は70歳を過ぎている。記憶をすべて失っていた。名前すらも曖昧で、自分が何者であったかを全く知らない。

世間からは「ボケ老人」と言われ、アパートからに引っ越したのであった。幸いまだお金はあったため、介護の手厚い有料老人ホームへと入居したのである。

朝になると介護士が部屋まで訪問してくれる。

「おはようございます、Nさん。今日はいい天気ですよ。外でみんなと日向ぼっこしませんか?」

N氏はぼんやりと微笑み、うなずいた。彼の目はどこか遠くを見つめており、過去も未来もない、ただ今この瞬間だけを幸せそうに生きているようだった。


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