健康な食事【ショートショート】
有名な美食家として知られるN氏は高級料理から庶民料理まであらゆる分野において純粋な味で評価する有名なインフルエンサーである。ある日の帰り道、N氏はいつも通り食べ歩きを楽しんでいた。薄暗い路地を抜けると、そこにひっそりと佇む古風な和食屋を見つけた。のれんには筆で書かれた「居酒屋」とだけあり、その文字はなんと右から左へ逆さまに読めるように書かれていた。何とも素朴な雰囲気が漂っており、まるで時代を超えたかのような錯覚を覚えた。興味を惹かれたN氏は、ふと足を止めた。
店内に足を踏み入れると、そこには田舎風の落ち着いた空間が広がっていた。壁には昔ながらの日本の風景画が飾られ、天井からは煤けた提灯が下がっている。土間には大きな釜があり、背の低いテーブルがいくつか並んでいる。見渡すと、奥から風変わりな服装の主人が現れた。主人は、古びた袢纏(はんてん)を身にまとい、まるで時代劇から抜け出してきたかのような姿だった。
「いらっしゃいませ。今日は何を召し上がりますか?」主人の声に、N氏は驚きながらも微笑んだ。「おすすめをいただけますか?」
主人は、釜で炊いたご飯に漬物、野菜と魚を盛りつけた料理を運んできた。その一皿は、どこか懐かしい香りとともに、N氏の心を鷲掴みにした。食べてみると、素材の味が見事に引き立ち、シンプルながらも奥深い味わいが広がった。
「これは素晴らしい…」N氏は感動し、自身のSNSにその感動を共有することにした。写真を撮り、短いレビューを添えて投稿した。すると、その投稿は瞬く間に拡散され、和食屋の名は一躍広まった。
数日後、店には多くの客が訪れるようになった。皆が口々に、「完全無農薬の野菜」と「シンプルな調理法」の魅力を語り合う。冬になると、ゆでダコやおでんといった季節の料理も加わり、一層の賑わいを見せた。
N氏も足繁く通い、やがて主人とも親しくなった。ある寒い冬の日、N氏は特別な料理を提供されることとなった。湯気が立ち上る鍋の中には、美しい湯豆腐が煮えたぎっていた。
「これは湯豆腐ですか?」N氏は興味津々で尋ねた。
「はい、これは我が店自慢の湯豆腐です。シンプルですが、素材の良さを最大限に引き出しています。」主人は誇らしげに答えた。
湯豆腐は驚くほど滑らかで、ほんのりとした大豆の甘みが口いっぱいに広がった。豆腐の上には刻みネギと柚子が乗っており、その香りが一層風味を引き立てていた。N氏はその一口一口を味わい、まるで心が洗われるような感覚に浸った。
「この湯豆腐もSNSに載せなければ…」N氏はそう思い、再び写真を撮り、レビューを投稿した。湯豆腐の人気はたちまち広がり、その投稿もまた大きな反響を呼んだ。
N氏のSNSの影響力は世界中に広がっていた。その投稿を見た海外のフォロワーたちも、和食屋の噂を聞きつけて訪れるようになった。アメリカやヨーロッパからの観光客が増え、健康志向の人々が集まり始めた。彼らは、「完全無農薬の野菜」「自然な調理法」「素材を生かした味わい」といったキーワードに魅了され、こぞって訪れるようになった。
N氏は人気火付けの第一人者として独占インタビューをさせて頂くと主人は「この店は、季節ごとに最も美味しい食材を使った料理を提供しています。すべては、お客様に喜んでもらうためです。」とだけ答えた
N氏はその言葉に心から共感し、さらに頻繁に店を訪れるようになった。SNS上では和食屋の人気がますます高まり、ついには高級店としての地位を確立するまでになった。
一年ほど通い続けたある日、N氏は意を決して主人に尋ねた。「どうしてこんなにもこだわりのある料理を提供するのですか?」
主人はにこやかに笑い、「秘密を知りたいですか?」と言ってN氏を裏口へと案内した。ドアを開けると、そこには驚くべき光景が広がっていた。目の前には、まるで江戸時代の町並みが広がっていたのだ。
「実はね、私は江戸時代から来た居酒屋の主人なんだよ。ここの食事も、当時の庶民が食べていたものそのままさ。だから拘りではなく、これしか知らないんだ」
N氏は目を丸くして聞いた。「江戸時代から…ですか?」
「そうだよ。そして、この江戸の町ではカップラーメンを売って大儲けしているんだ。」主人は誇らしげに続けた。「江戸の人々には斬新な料理だからね。」
N氏はその言葉に絶句した。彼の脳裏には、現代の食文化と江戸時代の町が奇妙に交錯する光景が浮かび、美食家としてのプライドが音を立てて崩れていくのを感じた。
ふと、店内に掲示された価格表に目をやると、湯豆腐や焼き魚、漬物などが現在の価格の10分の1以下で売られているのに気づいた。江戸時代の庶民が当たり前のように食べていた健康的な食事が、現代では随分と高くなってしまったことにN氏は皮肉を感じた。
「まさか、そんなことが…」
N氏はその場で言葉を失い、ただ江戸時代の町並みを呆然と見つめるしかなかった。美食の探求が奇妙な真実に突き当たる瞬間だった。
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