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「ふらり。」 #11 赤いロケット

イマジナリーフレンドが100人いる主人公、
学文(まなふみ)のふらり、ふらり小説。


学文は人の顔も名前も殆ど覚えられないけれど、昔の事はよく覚えている気がする。

学文が通っていた幼稚園は西鉄久留米駅から明治通りを西に少しばかりいったところにあった。カトリック系の幼稚園で敷地内には三角屋根の白くて大きな教会があった。その教会はとても背が高く目立つ存在で明治通りを進めばすぐに目についた。

教会と幼稚園の向かいには日吉町のバス停があり学文もよく利用していた。そのバス停の前に昔はフルーツパーラーがあり夏にはフルーツのアイスキャンディーを買って貰ったのが懐かしい。

もう少し西側に進むと六ツ門の交差点のところにパン屋のキムラヤ本店もあった。ここの名物は「ホットドッグ」と「まるあじ」であった。ちなみに「ホットドッグ」といってもパンにソーセージが入ったあのホットドッグではなく、戦後まもなく「ホットドッグ」が日本で認知される前、キムラヤの創業者が「ホットドッグ」という料理があると聞いて想像で生み出した物である。

「ホットドッグ」=「暑がり犬」という事からプレスハムを犬の下に見立て、ポークハム、からしマヨネーズ、コールスローサラダを組み合わせたキムラヤオリジナルのホットドッグを作り上げた。

学文は子供の頃はからしマヨネーズが大人の味で少し苦手だったのと、やはりソーセージの入ったホットドッグの方が好きだったので、こんな物はホットドッグではない!と思っていた。大人になってから食べると、まあこれはこれでアリだなと思ったものである。包み紙は緑と白とオレンジの少しイタリアン調で学文が子供の頃からレトロな雰囲気を醸し出していたが、中々可愛らしいとも想っていた。包も含めて久留米市民なら老若男女馴染みのある食べ物である。

もう一つの「まるあじ」であるがこれは菓子パンで、一言で言うなら久留米のメロンパンである。見た目はメロンパンのようでもあるし、九州の人なら佐賀県や大分県の名産品として知られる「丸ぼうろ」が少し大きくなってパンになっていると形容した方がわかりやすか?

丸いパンの表面にメロンパンの皮のように丸ぼうろが皮のように覆っているパンでこちらも久留米市民に愛されている。ちなみに学文のまわりでは何故か「あじパン」という愛称で呼ばれていた。子供の頃の彼にはあまりメロンパンとこのまるあじの区別はついてなかったようにも思うが、甘くて美味しくよく食べた馴染みのあるパンであった。

久留米のこのキムラヤは惜しまれつつも2017年に閉店したが、この二つのパンは未だに久留米のソウルフードで、今は他の企業に引き継がれて売られている。

学文の両親ともクリスチャンだった。彼もこの幼稚園に通っている時にこの教会で洗礼を受けた。勿論この幼稚園に通っているからといって洗礼を受ける必要も、信者になる必要もなかったはずであるが、両親がクリスチャンだったので洗礼を受けるのは自然な流れだったのだろう。

こちらの幼稚園は他の宗教系の幼稚園がそうであるように、カトリック系の幼稚園なので神父が園長を努め、教育に多少のカトリックの教えを含む。園には園児が一同に会する講堂が無かったので七五三の時には敷地内の三角屋根の教会でお祝いをする。学文は七五三という日本的な儀式とカトリックの教会で貰う千歳飴とマリア様の小さなペンダントが子供ながらにミスマッチに感じつつも面白くも思っていた。

またお遊戯会などの時には石橋文化センターの舞台を借りて「基督誕生」の劇をやった。学文は羊飼い役であった。ブリヂストンの久留米での貢献度は高く石橋文化ホールも園児がお遊戯で舞台をするには中々整った施設であり子供の頃からそういう文化的な物に多く触れられたのは幸いだったように思う。

学文は子供ながらに…子供だからこそか…まったく基督教というよりは…宗教に興味は無かった。ただ教会の造りやステンドグラスは普段自分が接している建物とは全く違うのでそういう物を見るのは好きだった。

勿論大抵の子供が法事など坊さんの念仏が退屈であるように、毎週日曜日に親に連れて行かれる基督教のミサが学文には苦痛だった。また子供ながらに信仰心のまったく無い学文が敬虔なクリスチャンとその場に一緒にいる事にとても場違いな感情があったのも確かである。学文はこの永遠とも思える退屈な時間を、大抵のカトリックの教会の壁にかけられた基督(キリスト)の「十字架の道行き」のレリーフ眺めて過ごした。

「十字架の道行き」とは基督の受難の捕縛から受難を経て復活まで15の場面を表したもので大抵カトリックの教会では「十四留」(14の場面)をレリーフにして壁などに飾ってある。15番目の場面の「復活」は祭壇に向かって祈る。復活のレリーフが大抵描かれていないのは心の中で復活した基督と向き合う必要があるからだろう。彼は特に基督教には興味は無かったけれど物語性のある物は好きだった。

この「十字架の道行き」のレリーフは「十四留」モチーフにしてある場面は同じだが、それぞれのカトリックの教会ごとに飾られている物は違っている。教会は大抵行事等何も無い時は信者であるかどうか関係なく開放されている事が多いので、その場合は見学する事可能である。学文も何かの折に教会に入る事があったら大抵「十字架の道行き」のレリーフやステンドグラスを見て帰る。

まあ子供の頃の学文は大抵「十字架の道行き」のレリーフを眺めるのもすぐに飽きて最後の「終わりの祈り」が待ち遠しくて待ち遠しくてたまらなかったのだが。

そういえばカトリック教会では2000年に主の祈りが文語から口語を使用されるようになった。理由は細かくはいくつかあるようだが、大きな理由としてはより身近で馴染みのある言葉を使いましょうという事らしい。これに関しては学文は熱心な信者ではないので特に思う事はないが、慣れや語感の良さからやはり文語の方が気に入ってはいる。

カトリック教会 ・主の祈り 1935年(文語)

天(てん)に在(ましま)す我われ等らの父よ
願はくは御名(みな)の尊(たふと)まれんことを
御国(みくに)の格(きた)らんことを
聖旨(みむね)の天に行はるる如く地にも行はれんことを
我等らの日用(にちよう)の糧を今日我等らに与へ給(たま)へ
我等らが人に赦(ゆるす)如く我等らの罪を赦し給へ
我等らを誘試(こころみ)に引き給はざれ
我等らを悪より援(すく)ひ給へ

アーメン

カトリック・聖公会共通口語訳・主の祈り(口語)

天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように、
み国が来ますように、
み心が天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです

アーメン

ちなみに学文はの両親は共働きで合ったため日中は乳母に預けられていた。その家は昔ながらの仏教を信仰していたため学文はそこで仏教とも接していた。仏壇で「りん」を鳴らすのも好きだったし、線香もたく。数珠の親玉にあるのぞき穴を覗き込んでお釈迦様を見るのも好きだった。

そういえば盆の時期に飾る電気式の盆提灯も流行りがあるのだろうか。学文が子供の頃…80年代の前半に乳母の家に置いてあった盆提灯はスイッチを入れると中のライトが回転して、辺りに提灯の柄と光が映し出されて、さながらミラーボールのような派手な盆提灯を使っていた。それを見る度に学文はいつだかTVで流れていた米国の映画「サタデー・ナイト・フィーバー」の1シーンを思い出して、天国で踊る仏さんを思い浮かべてしまう。

学文が丁度小学校に上がるか上がらないかの頃、大本山 成田山 久留米分院 明王寺の大きな大きな大仏が出来あがった。遠くに浮かぶ62mもの白い仏像は不思議な存在感があったのを覚えている。一度明王寺に行ったが大仏様の中に入ったり、地獄館があったりと中々広い宗教施設で観光地として子供でも楽しめた記憶がある。

今でも学文は特に特別信仰する宗教は持たないが自分が信仰するしないは別に、自分の信じる神様と違っても誰かが大事にする神や物事には最低限の敬意を払うのは人として当然であるので、その敷地を跨ぐ時には手を合わせる。

人の心は何かの支えがあれば強くなる。血の繋がりや愛情、背負ってる物。看板。多かれ少なかれ人はそういった物を支えにして暮らしている。宗教もそういった物の一つである。

閑話休題

幼稚園も帰りの支度が終わり、一人、二人と帰っていき園児は学文ひとりきりになっていた。その日は冬も近づき5時過ぎには暗くなる季節でる。

学文は母の迎えを待つ為に幼稚園のグラウンドで一人時間を潰していた。グランドとは言っても大人になって振り返ってみると、自分の世界の広がりと身体の成長と共にその頃思っていたよりも小さいグランドではある。

5歳の学文は幼稚園が終わると、両親の迎えがある時は別だが大抵は一人または誰かの親がいる時はそれに連れられて日吉町のバス停から西鉄バスに乗って乳母のいる家に帰っていた。

その日はなぜ彼一人、日も落ちかけて暗くなった幼稚園のグラウンドで時間を潰していたかというと、丁度乳母が病気で入院していたからである。夜中両親の仕事が終わってから帰る、実の家は六ツ門からは少し離れた場所にあったので一人バスで帰る事もできず、仕方無しに多少遅くなるが母親の迎えを待っていたのであった。

とは言え割と一人遊びの方が好きだった学文は多少の寂しさもあったとは思うが、他人が思うよりは気にもせず、その時も一人幼稚園の遊具で遊びながら時間を潰していた。

その遊具は滑り台や登り棒に円柱の赤いロケットを模した物を組み合わせた物であった。円柱のロケットの下には筒の中に入れる入り口があり、そこの内部には梯子が設けられていた。

彼はそのロケットに下から入り階段を登った。もう日も落ちかけていた時分なので中はすっかり暗い。手元しか見えず鉄の匂い、錆止めの匂いがする。そして何より形はロケットだが所詮は遊具である。しっかりと大地に繋ぎ止められたそれは学文をどこにも連れて行ってくれはしなかった。

彼は非常につまらなく思った。そして息苦しさを感じその赤いロケットから出たくなった。学文は梯子を登って外に出ようとしたその時だった。

学文の手が不意に梯子の隙間に挟まってしまった。

彼は焦った。ロケットと梯子の間に挟まった手を必死で抜こうとするが抜けない。焦れば焦る程パニックになる。そして「恐怖」が襲ってきた。

時間は5時もまわりすっかり暗くなっている。ロケットの中はさらに暗い。そしてロケットの中の鉄の匂いが学文に「血」をそして「死」を連想させた。

5歳の小さな世界で、情けないばかりに彼は弱い心しか持ち合わせていなく不安と恐怖に支配され、わんわんと号泣した。

ここで誰にも知られずに死ぬのだと号泣した。

死が怖いと感じた。寂しさを感じた。孤独を感じた。

どれ暗い時間が過ぎただろうか?たぶん彼が思う程時間は過ぎてなかった様に思う。彼が永遠に感じたその恐怖の時間ではあるが、彼が泣き止む前にその声を聞きつけたのだろう幼稚園の先生がロケットの下から覗き込んで「どうしたの?」と声をかけてくれた。

今まで「この世界、この宇宙に一人きり」とまで思い込んでいた学文が急に地球に、現実に戻ってきたようにすっかり恐怖心は無くなり、恐怖心より羞恥心に支配されていた。

「なんでもないです。。」

気恥ずかしくて学文はボソッと一言のみつぶやいた。そうすると力が抜けたのだろう。手も抜けた。

彼はさらに自分を情けなく思った。

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