15年前のブログから/日本の漫画はすごいなあということについて

最近すこしびびった言葉 まずゆっくり次の文章を読んでください。

 「前略、お母ちゃん。この世には幸も不幸もないのかもしれません。なにかを得ると必ずなにか失うものがある。なにかを捨てると必ずなにか得るものがある。たったひとつのかけがいのないもの、大切なものを失った時はどうでしょう。私たちは泣き叫んだり立ちすくんだり・・・でもそれが幸や不幸ではかれるものでしょうか。かけがえのないものを失うことは、かけがえのない真に、そして永遠に手に入れること!私は幼い頃、あなたの愛を失いました。私は死に物狂いで求めました。求め続けました。私は愛されたかった。でもそれがこんなところで自分の心の中で見つけるなんて。ずっと握り締めてきたてのひらを開くとそこにあった。そんな感じで。おかちゃん、これからはなにが起きても怖くはありません。勇気がわいてきます。この人生を二度と幸や不幸ではかりません。なんということでしょう、人生には意味があるだけです。ただ、人生の厳粛な意味をかみしめていけばいい。勇気がわいてきます」

 この文章を読んであなたはどう思いますか?というのも訊きたいけど、それよりもっと訊きたいことがある。あなたはこの文章は一体何からの引用だと思いますか?宮本輝じゃない?って思った人はいませんか?僕はそう思ったと思う。

けど、

なんとこれはマンガから、しかも4コママンガからの引用なのです。 (業田良家、「自虐の詩」からの引用)漫画をよく読んでる人は別に驚かないのかも知れないけど、僕はびびりました。少なくとも、僕が最近読んだ小説のどんな言葉より、ある意味で感染力のある言葉だと思ったからです。数年前、日本から友達が持ってきた西原恵理子の「僕んち」という漫画を読んだ時も、ひゃー、日本の漫画ってすげえなぁとショックを受けたけど、今回も参った。最近の小説なんかより、漫画の方が全然上という人がいるのも、わかる気がしてしまった。これは主人公の幸江が、会ったこともなく、どこにいるかもわからない母親に宛てて送る手紙の文章です。

好きか嫌いかという観点から言えば、僕はこういう地に足のついた‘個人的真実’を宗教的な確信とともに謳われるのが苦手です。このような人生観や真実ににくるみ取られてしまう人生からは、できるだけ無縁でいたいと思ってしまう性格なのです。けれど、上の文章には一人の人間が必死で生きた確かな重みがあるのを、認めないわけにはいきません。そしてこのような‘人生の厳粛な意味’が、僕をひどく憂鬱にするのです。ここには、個人的真実と、有無を言わせぬ説得力と、確信と悟りがあり、そして救いがありません。真理と意味という重力にからみつかれ、軽さを奪われた厳粛な人生。翼を奪われた鳥のように、厳格な重さを持って‘ただそこにある’人生。その前では、意味を噛み締めることはできても、笑いながら、軽やかでいることは難しい。

それがどんなに真理であり、真実であろうと、深刻さの檻の中に閉じ込め、人間から無意味な笑いを奪う思想を僕は信用しない。もちろん、無意味でいつづけることは難しく、意味の中に逃げることは優しい。意味はいつも僕らを安心させる。けれど意味の中に潜む鉛のような重さを僕は憎む。何よりも激しく、「暗い、暗い」と言いながら死んでいったツルゲーネフと同じくらい、逆恨みする。僕が今まで、そのような‘厳粛さと意味という病’に犯された重患だったからだ。

あまりに文章が酷いので、寝ます。今日は駄目みたいです。(っていつも言ってる気がする・・)

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