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スナフキンと孤独との付き合い方について/昔のブログから

こちらも15年程前に書いたものです。

まだ僕が幼く、右も左もわからないガキだった頃、(今でもそうじゃないか、などと思った方は早々にご退場願いたい)スナフキンは人生で最初のヒーローだった。幼い僕は、本気でスナフキンになりたいと思っていた。スナフキンのようになりたかったのではない、スナフキンそのものになりたかったのだ。んなもん、なれる訳ないと18くらいで気づき(遅い!)仕方ないので代わりにダ○キンで働こうとした・・・というのは半分くらい本当の話だ。

 もちろんもう、スナフキン的なものはパロディとしてしか、今の世の中には存在し得ない。世界はもう、あのムーミン谷のようにシンプルではないし、スナフキンが何よりも愛していた「孤独」も、あのような純粋な形では存在しない。だからこそ、憧れるとも言えるのだが・・・僕はスナフキンの「孤独」との付き合い方が好きだった。今でも好きだ。孤独をファッションとして飼いならすわけでもなく、また逆に「孤独」に脅かされる訳でもない。あの微妙なスタンスが好きなのだ。

 僕のように甘やかされた人間でも、孤独を感じることがある。それは、氷のようにひんやりとした剥き出しの世界の中に、裸で立たされてるようで、酷く心細い。けれど、同時にその「孤独感」の中には、デジャブにも似た懐かしいメロディーが響いているのが聴きとれるのだ。そして「ああ、これが本当なのかもしれない」とぼんやりと思う。

「2人で一緒に寝ていても、眼を閉じるときは一人」とは、サリンジャーの小説の台詞だったと思うが、なにも今更「人は皆、孤独だ」などと場違いなダンディズムでもって、遠い眼をするまでもなく、「人は皆、当たり前に孤独」なのだ。そこを出発点としなければ、言葉を変えれば、「他人の他者性」を認識しなければ、「人と繋がる喜び」も感じることはできない。だから「孤独を愛する」ことは、「自分が人間であることを愛する」ことと同義なのだ。

 だからこそスナフキンはムーミンという妖精の皮を被ったカバたちが、冬眠して惰眠を貪ってるあいだに、せっせと旅に出るのだろう。旅」なんて無駄なことをするのは人間だけだ。鳥や動物は「移動」はしても、「旅」はしない。単なる生に過剰な意味を寄与してしまう「困った動物」である人間だけが、旅をする。スナフキンはムーミン谷の中で唯一「人間臭い」そして、それが僕のスナフキン好きの理由なのだ。「自然」と「孤独」とそして「世界」と、敬意を失わずに、自分なりに繋がること。それをスナフキンは教えてくれる。

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