そもそも、信じてないものを信じていると言わざるを得ないのは信仰の強制では?

さてと、そういう経緯で、とりあえず、宗教については、どこに属してるかは「なあなあ」にしとくというスタンスで、「意義は一切認めない」という感じだったが・・・少々、状況が変わりつつあったので、危惧する方向にいった。というのも、しばしば、こういった話を見かけるようになったため。

この記事で気になるところは・・・。

「留学前の説明会で
“「あなたの宗教は何ですか?」と聞かれたら
「何も信じていない」と答えないでください。
何かの宗教を信じている人はそれを答えてください。
何も信じていない人は「仏教、Buddhism」と答えて下さい。”」(原文ママ)

という部分。

そもそも、何も信じていないにも関わらず、なぜ、仏教と答える必要があるのか?これは信仰の強制か?という疑問しか湧かない。

このサイトによると、

「「ある日本の若者が、1人で、サウジアラビアに入国しようとしました。
入国書類の宗教の欄に、正直に「NONE」と書きました。
「私は何も信じていない」と。
入国できるどころか、別室に連れていかれて、そのまま、その日のうちに、強制送還されてしまいました。」」(原文ママ)

と、サウジアラビアで起きたことが原因のようだが、

「イスラム教やキリスト教を信じている人が多い国では、天地創造の神を信じている人が多いです。
そういう人から見ると、何の宗教も信じない、神をも信じぬ者は、どんな秩序も認めない、恐ろしい者、テロリストと同じように思われる訳です。」(原文ママ)

そもそも、そういう狂信者どものいうことを聴く必要があるか?

という感想しかない。

それに、コーランにある「神を信じぬものと戦え」(小ジハード(もしくは外へのジハード)に繋がるアレ)とか、書いてある時点で疑問がある。

実は、この話はこのサイトだけではなく、あちらこちらで、似たようなことを聞いたことがあるので、危機感を覚えた。

とりあえず、この二冊にも似たような記述があった。ただ、それ以外にも、口頭で聴いたものまで含めれば、異口同音だったと言わざるを得ない。

そもそも、そういった狂信者がいるのは間違いはないだろうが、そもそも、それでも、自分の信念を果たしてまげていいのだろうか?

仏教を信じていないにも関わらず、仏教徒と答えたり、神道というもの・・・これ自体も、本来、無名の土着信仰を集めたものではないか?と思うし、大国主の子孫と思しき人の話からすると、単にかつての為政者の争いを美化した物語に過ぎないのでは?という疑問も湧いている。そのため、神道を信仰していないにも関わらず、そう答えるということに対して、非常に疑問を持たざるを得なかった。

そうなると必然的に無宗教・無神論に走らざるを得なくなるのだが・・・。

そもそも、信じてないものを信じていると言わざるを得ないのは信仰の強制では?という疑念を抱いたきっかけにもなった。

それに、実際、いろいろと見て見ると、どうも、信仰しているか?と言われると、そうだとはどうも言えないと思わざるを得ないし。

よろしければサポートをよろしくおねがいします。