明日、社会が急に崩壊しても、私は驚かないだろう。

社会が崩壊した理由が、後世の歴史家がいろいろと批評するかもしれないが、恐らく、その一部は当たっているかもしれない。

社会は不断の努力により維持できるが、その努力を怠り、インフラの整備をしなかったり、研究を怠り、政治活動に現の抜かしたり、カルト宗教のいいなりになっているような社会では、いずれ、崩壊する。

他国というか、カルトに円の価値を操られるかもしれないし、「海外では〰」というような自国とは、全く関わり合いのない問題を自国に押し付けてくるかもしれない。というか、問題に関係していようが、自国のやり方でしか、解決には導けないだろう。

自分にはまったくいい影響を与えない世間様とか、海外からとか、社会から求められているとか、「抽象的」なことで、誰が行動するか?

「具体的」な問題が共有されなければ、人は動かないだろう。

そういう「抽象論」はただの「建前主義」にしかつながらず、結局、一見すると革新的な政策だろうが、実態は無策だったり、旧態依然の体質で、革新的な政策への非協力にしかつながらないだろう。

データを持ってこようが、そのデータがいかがわしいものであれば、一切、自分にデメリットがあろうと信じなくなる。

データは「方法」と「考察」を見なければ、正当なデータかどうかは分からない。

こういったことが考えられず、特定の方向にしかいかないのであれば、社会は、どこかで、崩壊するだろう。

内乱によるものか、インフラが維持できなくなるか、それとも、外患誘致か、カルト宗教によるのっとりかは知らないがね。

どうであれ、明日、社会が急に崩壊しても、私は驚かないだろう。

そして、私は、所詮はそんなものだと、割り切るだろう。

そして、新たな社会を作る、というか、立て直すことに、力を入れるだろう。

今はそのために、

過去にどういうことがあったのか?

どういう技術があったのか?

などを調べる「溜め」の時間だと思っている。

そして、根本的な改善にはつながらないかもしれないけど、練習がてら、問題解決をしとくだけ。

それだけでいいと思ってる。

そう考えれば、社会が明日、崩壊しようが、立て直せばいいので、それほど、驚いたりはしないと思っているし、これくらいのメンタルが今後は必要になるだろうとも思っている。

よろしければサポートをよろしくおねがいします。