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想像の余地の楽しさ

最近は専ら、ゲームクリエイターのヨコオタロウさんのインタビューやゲーム開発の裏話にお熱になっている。『DRAG-ON DRAGOON』シリーズや、『NieR』シリーズのディレクションをしている人だ。

ヨコオさんは非常に人それぞれの考えを尊重している。上記写真を見る通り、被り物をして大勢の前に立つのだが、自分のポリシーに基づいての事である。制作者の顔を見たせいでゲームのイメージが崩れたりするのが嫌だと言う。例に挙げていたのは、「官能小説を書いている人がゴリゴリの中年男性の顔だったら嫌だ。」と言うもの。確かに嫌かもしれない。でも全てのゲームに言えるかと言ったらそうでもないのかもしれないが、言いたいことは分かる。

最近見た動画。

https://youtu.be/DtmTTeSMaIU

ヨコオさんが自分の手掛けるゲームの生放送で「なんで自分が作ったゲームの設定の詳細について語ってくれないのか」というヨコオさんに対してみんなが思う疑問に対してこう語っていた。自分が覚えてる範囲で噛み砕いて書く。

谷川俊太郎の詩に女性器の呼称が入っている詩
(『なんでもおまんこ』というタイトルの詩。放送時は伏せて喋っていた。)があり、それについて友達の女性と話していたら、その女性は「お母さんに見せられない」との感想だったそうで、
大真面目に「その詩にこういう事が込められてるんだよ」とその詩を説明にした時に「今の説明は自分の想像でしかなくて、その想像は自分の自身の影であり、その影がその詩を通して思ったことに反映されている」という事に気付いて、その友達が「お母さんに見せられない」って思ったのもそれはそれでその人が詩を通して見えたその人の姿だと気付かされ、多種多様で考える余地があるということは楽しいことだと思い、ゲームに対して簡単に答えを提示して考える楽しみを奪ってしまうのはやりたくない、プレイヤーの「なんで教えてくれないんだ」みたいなものも自分のゲームに対してなんらかの事を思って出たものだと思うしそれも正解、自分で考えて欲しいけど考えないのも自由です。というようなことを言っていた。

物凄く腑に落ちた。自分も今までであればぼやかして語られる話に対して意味を物凄く求めがちであったのだが、創作物の感想と言うものは色んな物事に対して自分がどう思っているかという自分自身の影であるのかもしれないと気付いた時、自分は何者なのかに触れられるチャンスかもしれないと思い、これからの感想で自分が想像したもの、考えた事について大事にしていきたいと思った。多分、心のどこかではそれに気付いていて、自分もかなり「自由な選択」というものが好きだが、こんな考えする人いないよな、とかすごく浅い想像なんじゃないか、正しくないんじゃないかというのが邪魔をしてしまっていたのでこれからは自信を持っていろいろな感想を言っていけたらと思う。そのためにはまず皆にも「色んな意見があって楽しい」という事について理解をしていって欲しいなと思う。

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