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自分を責めること、酒を飲むこと

昨日は飲み会。歩いて帰れるだろうと思って歩き出してみたら意外と40〜50分かかり、疲れていたのにまあまあの運動をしてしまった。
家に着いたのが1時前。気がついたらクーラーつけて服脱いで寝ていて、5時半に目が覚めた。今日休みだからいいけど寝不足だわ。疲れ果ててる、スマホに映る自分の顔がなんとももの悲しい。

そして今、久々に二日酔い。半年ぶりくらいか?節約と健康のために普段家では飲まなくなって、最後にしっかり飲んだのがいつだったかも思い出せないくらいだから(ビール1缶とかは飲んだうちに入らないからノーカンとして)さらに二日酔いなんてほんといつぶりだろうと思う。

それでふと気になって、「酒」というワードで自分の過去の日記を検索してみたらなかなか面白かった。
酒を飲む→酒は飲むべきではないと書き残す→やっぱり禁酒すると調子いいなぁ→忘れた頃に酒を飲む→酒は飲むべきではないと書き残す…というのを延々繰り返している。アホなのかな。もちろんこの今日の日記も、「飲むべきではないと書き残す」のフェーズだよ。

だけど、確かに私は癒しと解放を求めてはいるけれど、それを飲酒で得ようとするのはやっぱ間違ってるよね。明らかに。
飲んでる時はくたびれた心身を癒せて、いつの間にか埃みたいに溜まってるストレスを解放してる気にはなれる。でもそれは錯覚で、結局後で余計に疲れるし、部屋の隅に集められた埃の塊は目の前からなくなったように見えても、単にまき散らかしてるだけだったと翌朝冷静になってから気づくんだ。

そもそもどうして癒しや解放が必要になってるのかと考えてみれば、「自分を責める気持ち」のせいだと思う。普段から心の中で自分を責めすぎているということを以前自覚したのだけど、埃の正体ってまさにこの自分を責める気持ちかも。
仕事ができない、すぐ楽に流れる、気遣いができない、気付いてるけどやりたくなくて見て見ぬふり、努力するのも面倒、人に興味が持てない自由人、冷たいソシオパス、社会不適合者、役立たず。自分のことを常にこんな風に思っているから、精神の部屋は埃だらけで、いつまでたってもこの世の居心地が良くならない。

それが、酒を飲みはじめると「いいじゃん別に!ていうか、そんなこと全然ないって!」「そうだよ!自分、いうほど酷くもないよー」みたいな気持ちになる。素敵な錯覚が起きる。現実は別に誰にも慰められてないのに、許された気持ちになれる。それが嬉しくて、調子に乗ってさらに飲みすぎる。
でも、酔いが覚めると自分自身だけじゃなくて周りの人みんなに「あいつは仕事ができない、すぐ楽に流れる、気遣いができない、気付いてるけどやりたくなくて見て見ぬふり、努力するのも面倒、人に興味が持てない自由人、冷たいソシオパス、社会不適合者、役立たず」って知られてしまったような絶望感と不安感を味わうことになるんだ。
まぁ、それはさすがに自分の妄想だったとしても、酒癖悪いはた迷惑なやつってことは確実に知れ渡ってるわけで。はは…


「人生でやりたいことがある人間は、酒を飲んでる場合じゃない。酒なんて、人生でやりたいことがとくにない奴が飲めばいいのだ。」と、いうのは私の名言なのだけど、最近はやりたいことがあるということにすがりながらも、やれないでいる自分をまた責めている。…とりあえず、酒云々よりも自分を責めることをやめることから始めようかな。
こうして体調がイマイチな時でさえ(だからこそ)、ベッドでうだうだしながらネット上の文章を読んだり日記に気持ちを書き出したりして気を紛らわしているのだから、初めから読み書きすることで癒しと解放を得ればいいのにね。その方が健全だしさ。


とか書いてるうちにすっかり頭痛も治ったわ。お腹すいてきたし。やれやれ。

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