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不登校児の復学に祝福の舞を踊りたい

コロナ休校を含めると約5ヶ月ぶりに登校している。学童も楽しそうに通って、家に帰ると今日の出来事を楽しそうに話す。こんなに娘のことを考えたのはいつぶりだろうか?2歳の時に肺炎になって入院したとき?いや、昨年の夏インフルエンザにかかり、原因がなかなか分からず近所の病院を転々とした時か。いや、どれも比にならないくらい考えた。だってどんなに周りが「一生学校行かないってわけじゃないんだし疲れたんだよ~」なんて言ったところでネガティブ心が大爆発し「このまま引きこもりになったら…私はおばあちゃんになっても働き続けてこの子は一生のうちの1番キラキラ輝く時を薄暗い部屋で過ごすのかもしれない」なんてことしか考えていなかった。

ある日突然、ころっと気が変わったように学校へ行く子もいるよ。と言われていたが、そんな日が来るなんて思ってもいなかった。昨日から実際ころっと気が変わったように学校へ行っているが、きっところっと気が変わったわけではないと思う。子どもだからってそんなに単純ではない。

きっと、娘なりに色んなことを考えて、いろんな葛藤を抱いて5ヶ月を過ごし学校へ行ってみようかという結論に至ったのだろう。物ごとは点だけを見てはいけない。表面化していなくても点と線で水面下ではきっと繋がっているのだ。

娘がなぜ学校に行かなくなったかは未だ定かではないが、①静かにして、落ち着かせてということばをよく口にするようになった②担任が静かなタイプから元気系に変わった③クラスは学校でも噂になるほど「元気いっぱい」(つまり騒がしい)恐らく前の記事でも書いたように娘はその雰囲気についていけなくなったのか疲れてしまったのか、「学校に行くととても疲れる、なぜだかわからないけれど」という事実に、体調がすぐれずにお休みをした日に気づいたようだ。夏休み明け私が無理やりに手を引っ張り登校した3日間、そこでも娘は気づいた。学校にはクラス以外にも、別室登校や図書室で心を落ち着かせるという手段があることを。例え学校を5ヶ月休んでも、自分の居場所があることを。子どもは大人ほど多く手段を持ち合わせていないから0か100かみたいな極端な思考に陥りやすいのかもしれないだけで、学習能力は大人よりずっと高い。

新たな選択肢という素晴らしい武器(お守り)を手に入れることで娘は少し安心して登校できているのではないかと思う。表面的には私が無理やりに登校させた3日間が引き金になり、更にwifiの電源を切って仕事に出るという行為が、娘を学校へと導いたように見えているけれど、子どもの心の動きをじっくりかんがえることが1番かなと思う。もちろん本人ではないし性格もまったく違う2人なので本当のところは分からないが、わたしの考察は以上である。

【追記】

学校側は、わたし以外の人、外界とのコミュニケーション不足がどれ程娘にとって悪影響を及ぼすか、を私に耳にたこが出来るほど訴えた。どんどん私も私の影響しか受けない娘が無事に成長を遂げるのか…という一抹の不安に駆られたし苦悩した。なので娘にはお外へ行こうか?と誘い、信頼のおける友人に会わせるよう促し、お友達とは遊んだら?などとも聞いてみた。「そうだね、そのうちね、」とうまくかわされながら数ヶ月が過ぎた。学校側が危惧するコミュニケーション不足とは裏腹に娘は外界、他者とのコミュニケーションを遮断して落ち着きたかったのだ。全く逆行する対応を娘にしたことを深く反省すると共に、人の心を発端とする問題にたいして明確な答えなんて無いんだということを今回学んだ。私はすぐに答えを欲しがる。だから国語は嫌い、数学は苦手だけど大好きだった。きっと答えが1つなんてことはお勉強の世界だけなんだ。

娘が登校するようになって、本当ならケーキを買って唐揚げをあげて、大好きなハッピーセットも買って図書カードでもプレゼントしてクラッカーをぶっぱなしたい気分だが、学校へ行けたことをお祝いし過度に喜ぶことは、「学校へ行けてなかった娘を否定する事」になるので、私はそっと見守り毎日の学校学童で起こった出来事を、へぇ、ふーん、と平静を装って聞かなければならない。

学校へ行こうが行くまいが娘は娘なのだ。そこで人の善し悪しは決まらないし、私が烈火のごとく怒ったり落ち込んだりするのはなにか違う。ただ、お祝が出来ないというもどかしさにモヤモヤを感じている。



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