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37|障害について対等に話せるということ

きょうだい児の私にとって、「障害」という話題は、怖い。その単語が出ると、ビクッとなる。

そしてそれは、周りのみんなも、そして障害児の弟の話を聞く相手も同じかもしれない。


私は四六時中、障害児の弟と一緒にいるわけで、障害について考えたり、親や関係者と話すことは普通だ。
でもきっと、多くの人にとってはどう触れていいのか分からない話題なのだろう。私はその感覚は分かんないけど。きっと「障害」というものは身近では無い。

弟がいて大変なことや悩んでることも、面白かったことや愛おしいと感じたことも、私はただの「弟」の話としてする。みんなと同じ。

でも、普通は戸惑われることが多い。
面白い話なのに笑ってくれない。
苦笑いされる。気を遣わせる。
相手は何も悪くない。誰も悪くない。
ただ、ぎこちない会話になるのが申し訳なくて、話すのが怖くなっていく。

日常的な、私がきょうだい児当事者としての話もそうだが、障害が絡んでいる話をする時も同じだ。
自分をあげているようで嫌だが、これまで弟と過ごしてきた私と、みんなでは、どう足掻いても知識に差があるのは事実で、それは会話にもどうしても現れてしまう。

これまで出会った友だちには、弟のことを話した人もいる。信頼した人たちだけだ。
でも正直言ってその中でも対等に話せる人はごく一部だ。

弟の話をして笑ってくれる。
障害について聞いてくれる。
例えば、今の社会について話せる。
きょうだい児に必要な支援とはなにかを一緒に考えてくれる。

そういう人は、珍しい。(関係者は別よ?)

そして、多分それは段々とそうなっていくものなんだと思う。何度も回数を重ねて、私とあなたという信頼関係がうまれて、だからこそ相手を理解しようとして、できるようになることなんだと思う。私はやっとそのことをわかってきた。


この間会った、中学時代からの友だち。
彼女とは何度も何度も話し合って、くだらないことで笑って、それと同じくらい泣いた。
そして私は弟の話も、当時荒れてた家の話もしていたし、彼女もまた話してくれていた。

彼女は今、看護師を目指している。

きっかけはもちろんたくさんあっただろうし、興味がある分野もいろいろあるそうだけど、彼女がこういってくれた。「今、レポートできょうだい児について書こうと思ってるんだよね」と。その後、障害児支援についてや、きょうだい児に対して何が出来るのか、私たちは話した。もちろんそれだけじゃない。いろんな話をしたけど、結局かれこれ4時間くらいファミレスにいた(すみません)。

「あいちゃんが弟くんの話をしてくれたことで、私はほんの少しかもしれないけど、その苦しみを知ることができた。」ありがとう と言って、彼女は笑った。

私こそ ありがとう だ。
看護という道で、他の職業より障害に関わる機会が多いとはいえ、こうしてきょうだい児にまで目を向けてくれるのが本当に嬉しかった。もし何もできなかったとしても、知って、考えてくれるだけでどんなに嬉しいことか。

障害について対等に話すことはすごく難しい。
でも、私自身がその機会を作り出せたのなら、少しは自分を褒めてあげたいし、それを受け入れてくれる友だちにも感謝したい。
これからもそんな人に出会えるといいな。

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