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命にかえてまでも…

イギリスの歴史学者アーノルド・J・トインビー Arnold Joseph Toynbee(1889-1975)は彼の旅行記『オクサスとヤムナーの間 Between Oxus and Jamnar』において、歴史によって変化するもののと前置きしながらも、地理的条件において文明にはおよそ2種の型があるの述べている。ひとつは文明が交錯する「十字路」であり、もうひとつが文明が吹き溜まる「袋小路」である。そして、「十字路」の代表的地域がアフガニスタンだと語っている。後者の代表例は日本ではあるが…。

歴史を通じてアフガニスタンはギリシア系のバクトリア、北方イラン系のサカ、クシャーンといった騎馬民族、インドの宗教、イスラーム、モンゴルなどの勢力がこの地を行き交った。それだけでなく、民族、文化、言語、宗教の交錯することでの独特の文明を開花させたのである。

1970年を前後して、アフガニスタンは世界各国の考古学者が集い、発掘合戦を繰り広げていた。アフガニスタンの遺跡・遺構から発見された美術・考古資料の多くは、カーブル国立博物館に収蔵された。

状況が一変するのは1990年代に入ってからである。突如、アフガニスタンに登場したタリバーンである。1978年末から始まる旧ソ連のアフガン侵攻、1989年に旧ソ連が撤退してから4年間続いたナジーブッラー政権との争いの中で、タリバーンの存在はなかったといってよい。彼らがドラマチックとも言えるほど突如姿を現したのは1994年のことであった。特に混乱状態にあったカンダハールとその周辺地域に一定の平和と安定をもたらしたのはタリバーンであったことは間違いない。が、1995年にアフガニスタン西部の要衝ヘラートを陥落、翌96年に首都カーブルを陥落させて以降、過激化の一途をたどることになる。

彼らはイスラム原理主義の名の下、それにそぐわないものを排除していった。そしてカーブル国立博物館も破壊され、そこに収蔵された数々の美術・考古資料もまた灰燼に帰した…と思われていた。

2001年9月11日、アメリカで起きた世界同時多発テロ事件の報復として、同国は同年10月7日から、アルカイーダとタリバーンを掃討するためアフガニスタンで「不朽の自由作戦」が開始された。

同年12月22日に、カーブルで暫定政権が発足、翌年1月に東京でアフガニスタン復興支援会議が開催され、同年6月にアフガニスタン・イスラム暫定政府が発足し、その後正式にアフガニスタン・イスラム共和国が成立した。

そのような中で驚くべき発表が2003年にあった。灰燼に帰したと思われていたアフガニスタンの至宝である美術・考古資料が情報文化省の地下3階の倉庫から発見されたのである。簡単に説明するなら、タリバーンに破壊される前に、秘密裏に情報文化省の倉庫に運んだことで破壊を免れたということである。

この文化財の保護には3人の男が関わっていたという。たった3人だけで夜な夜な情報文化省の倉庫に運んだというのだ。

2004年に初めてアフガニスタンに赴いた時、そのうちのひとりである当時のアフガニスタン考古局長と話をし、その後もうひとりとも一緒に仕事をした。

2005年には考古局長を務めていた人物とバーミヤーン州東部の調査を一緒に行った。彼とは道中色々と話をしたが、興味深かったのはやはり博物館から遺物を情報文化省に運んだ時の話であった。

その中でも印象的だったのはこうである。「たとえ自分が死んだとしても、自分の仕事をする人間はまた現れるだろう。しかしアフガニスタンの宝物がなくなれば2度と元に戻ることはない。宝物はアフガニスタンの文化なのだ。宝物がなくなるということは、文化が破壊されることであり、破壊された文化は2度と元にはもどらないのだ」と。

胸をうつ話だった。最後に「異教徒のものだけどね」と笑った彼の顔が印象的だった。

戦争の火種はどこにでもある。必ずしも悪とされる存在が引き起こすものでもない。善なる思いの押し付けもまた戦争を引き起こす。

戦争のひとつの大罪は文化の破壊であると感じた。
(2005年の調査ノートより)

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