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お前のその夢は誰かを幸せにできるのか…

〈1〉

昨日(10月5日)の夜、畏友(enju)とのコラボツイキャス「端くれ坊主ラジオー」の中で話した「お前のその夢は誰かを幸せにできるのか」について書こうと思う。

ちなみにこのコラボツイキャスは畏友の誘いで、なんのオブリゲーションもなく、世間のこと、人間のこと、宗教のことを気軽にお坊さんが語ろうという設定のものである。特段に有名でも、高僧でもない普通のお坊さんが普段何を考えているのか、何を話しているのか、その舞台裏を見せようという「楽屋ネタ」の公開番組である。

昨日のテーマは、いま巷を賑わせている劇場版『鬼滅の刃』無限列車編を、流行に乗じて2人とも観て、それぞれに感動し、それぞれに考えさせられることがあったものだから、それについて話そうと公開したものである。

この映画がどうだとか、あるいは『鬼滅の刃』の物語がどうかという話は割愛する。ぼくらが何を感じたのか、何を思ったのかを語ったからだ。

その中で、「人は人の中でどう生きるのか」という話の流れで、ぼくはアフガニスタンでのひとつのエピソードを語った。このnoteの主題はここにある。

〈2〉

2007年10月、ぼくはアフガニスタンにいた。3度目のアフガニスタンである。ぼくにとってアフガニスタンは憧れの地であった。バーミヤーンの大仏もこの目で見たかったし、砂漠の大地を駆け回りたくて仕方がなかった。2001年3月、タリバーンによってバーミヤーンの大仏は破壊されてしまったものの、それでも憧れの地に立っている喜びは筆舌に尽くし難いものがあった。

私は隊から離れ、ひとりバーミヤーンに滞在していた。常宿にしていた盆地の南の崖上にあるホテルで寝泊まりをし、外部との連絡を取っていた。その時、アフガニスタンは少し緊迫はしていたものの、あからさまに何か危険が迫っていることはなく、むしろバーミヤーンには牧歌的な空気が変わらず流れていた。ただ、軍事演習で聞こえる銃声、たまに聞こえる地雷の爆発音以外は…。

この時、ちょうどイスラム圏は日の出から日没までは断食をするラマダーンの期間だった。ぼくはひとりだったので、食事は親しくなったホテルの従業員と一緒に取っていた。

これは余談であるが、海外旅行はひとりに限る。なぜ海外くんだりまで行って日本人と喋らなくちゃいけないんだと思う。その土地に行けばその土地の人間と話せばいい。でなければ、海外になんて行く意味はない…。話をもとに戻そう。

〈3〉

このホテルのオーナーとは毎夜多くのことを語った。彼はタジーク系の男で、その生い立ち、ムジャヒディン時代に戦闘に加わっていたこと、タリバーン時代のことなど、多くのことを聞いた。

ある夜、その彼がおもむろにこんなことをぼくに問いかけてきた。

「お前の夢はなんだ?」

確かにアフガニスタンというところは、1978年12月24日、旧ソ連がアム・ダリアを南越して侵攻して以来ずっと戦争の中にあった。戦争とはあまりにも現実的で残酷的過ぎる。その中を生き抜いてきた彼にとって「夢」とは、何よりも自らが生きる糧なのだろうと漠然と思っていた。

「オレの夢か?そうだなぁ…」

その時のぼくはようやく研究者としてひとり立ちできたあたりで、自分の夢だったアフガニスタンにやっと来れたこと、そして研究者としてどんなことをやっていきたいのか、ぼくは自分の心を探るようにぼくの夢を彼に話し続けた。

彼はうなずきもせず、ただぼくの顔を見たまま黙って聞いていた。そして、そろそろ話が終わろうとする時…

「お前の夢はわかった。ところで、もうひとつ聞くが、お前のその夢は誰かを幸せにできるのか?お前が語った夢はお前の夢だな。その夢は誰かを幸せにできるのか?」

考えもしなかった問いに、ぼくは息を凝らし、次の言葉を失ってしまった。

彼に語った私の夢はあくまでも「私」の夢であって、他の誰も関係はしない。自分の夢を達成したところで、誰が幸せになるわけでもない。誰かを幸せにするなんて考えもしなかったのだ。言われてみたらその通りだ。

しばらく沈黙の時間が緩慢に流れる。

ぼくはやっとの思いで彼に、

「じゃあ、同じ質問をするけど、お前の夢はなんだ?」

とたずねた。そして彼は、

「家族の幸せだよ。オレの家族全員が幸せであること。これがオレの幸せだ。それ以上の幸せがこの世に存在するのか?」

と即答した。

彼は奥さんを5人もち、それぞれに数人の子どもがいる。家族といっても、日本人が想像するよりはるかに大所帯である。その全員が幸せであること、それが自分の幸せだと言うのだ。

〈4〉

ふと研究者を目指そうと思った時のことを思い出した。

学部を卒業して大学院に進学する時、ある文化人類学の先生から言われたことである。

『そっか。研究者になるのか。そんな空気は感じていたよ。研究者になるにはそういう空気感は必要だしな。これは努力では何ともできないもんだ。ところでお前には覚悟はあるか?研究者として生きるということは、それが過去の人であれ、今の人であれ、それを食いものにして行くことなんだ。この意味がわかるか?他人の屍をあばき、それを食いものにして、いわばハイエナのように生きるのが研究者なんだ。そのことへの罪の意識はあるのか?罪を背負って生きていく覚悟はあるのか?ということなんだ。今、答えを出せなくても、それを問い続けろ』

その時は何を言われているのか、話の半分も理解できなかったけど、タジークの男に言われたことで、やっと文化人類学の先生から言われたことを理解できたような気がした。

人が人として生きていくということは、ひとりで生きていくことはできない。短期的には孤独になることはできても、永続的にひとりになることはできない。

人は誰かの力を借り、助けを借り、人とともに生きていかねばならない。

ひとりの個人として成長することはもちろん大切なことであり、個人の心を鍛錬することは当然のことである。しかし、これでは人として生きていくにはあまりに不十分なのだ。個人の心の鍛錬はあくまでも自分のものでしかなく、そこに共有や、共振や、共感といったものはない。

人が人として生きていく中で、人はどのような人とともに幸せを感じるのか。もう少し言えば、自分は誰を幸せにできるのか。この単純な問いを自ら蓋をして、己の欲を正当化してはいないか、そんなことを考えた。

自ら戦闘に加わり、生きるために人を殺し、戦い抜いたタジークの男の言葉は今も重くのしかかっている。

〈5〉

ぼくは雪かきを素直にできる人間が一番偉いと思っている。そこに人格や、知識なんてのは関係ない。やることが大事だし、やらなければたちまちに自分以外の人が困るわけで、やれば人は喜んでくれるのだ。そのシンプルさがいい。

理屈をこねくり回す(ぼくの仕事がそれだけど)だけでは人を幸せになんかできないのだ。

ところで書家の日比野五鳳(1901-1985)さんのことはご存知だろうか。昭和三筆のひとりで素朴、実質を重んじ、その精神は書にも現れている。

その日比野さんが文化功労者に選ばれた時、ぼくはたまたまご本人から話を聞いたことがある。ぼくが小学校6年だっか、中学1年の時である。

その時、言われたのは、

『共に咲くよろこび』

だった。この言葉は文化功労者の祝いの席での記念品にも書かれていたと思う。

悟りもいい、解脱もいい、往生もいい。

だけど、その前に共に咲きましょうよ。誰かを幸せにしましょうよ。それからでも遅くはない。

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