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ひとりが好きなのは、ひとりでいたかったからではなくて、ひとりでいるしかなかったからかもしれない。



一人旅を終えて、東京に帰ってきた。



朝起きて、そのまま。
予定よりも、ずっと早く。

慣れないベッドの感触と、いつもよりも響いてくる雨音で朝方まで眠れなかったせいで残っている疲れと、自分にとっての冒険だった旅を終えた達成感が混じり合った気怠い体で、慣れ親しんだ自分の部屋の安心感に身をゆだねながら、これを書いている。

早く帰ってきたのは、朝、起きると、晴れ女の私には珍しく、しとしとと雨が降っていたことも、昨晩、雨の中花火を見に行ったせいで濡れた靴が乾き切ってなかったことも、大きな原因なのだけど、それでも、いちばん嫌だったのは、ひとり、だったことなのかもしれない。


ひとりでも幸せ、を、感じるための旅にするつもりが、結局、私は、ひとり、から逃げるように、日常にいそいそと戻ってきた。




もう、ひとりは、いやだ、と思った。



たった一泊の旅で、何があったのかというと、何もない。
それでも、昨日の夜、勇気を出して泊まったゲストハウスの二段ベッドの下で、目の前にある天井を見ながら、私は心から思っていた。

たった一泊でも、寂しかった。
寂しくて仕方なかった。


知らない場所で知らない人の中にいると、普段とは違う、心にぴったりと寄り添うように、ひとり、を感じることになるのだと知った。


平気だと思った。

こんなに、いつも、ひとりを楽しんでいるから。


でも、いざ、見知らぬ土地で、ひとり、をまじまじと感じてみたら、私の想像とは違う感覚があった。




‟恋人がいなければ、幸せにはなれない”
その呪いを解く、などと、なんだか自分で大袈裟な旅にしたくせに、私はやっぱり、なにはともあれ、恋人がほしいのだと、実感した。


6年ぶりに見る海上花火は綺麗だった。


それでも、私は、
「あの花火が見たかった」のではなくて、
「恋人とあの花火が見たかった」んだと、わかった。



恋人がいない今も、幸せ。それは確かな事実。

けれど、私にとっては、大好きな人と一緒にいられたら、幸せ。大好きな人と一緒にいることに、私の幸せがある。
そのことだって、真実だ。


それでいいじゃないか。



恋を叶えようと頑張って、でも叶えられなくて。
こうなったら、ひとり、をとことん楽しむしかない。
というか、ひとり、を楽しめる私になれれば、ひとり、でも幸せな私になれれば、恋も上手くいくかもしれない、と思った。私の動機はいつだって欲望という下心だ。



でも、もう、いいじゃないか、と思う。


大好きな恋人がいて、愛していて、愛されている。
そのことが何よりも幸せだと感じること。


それは、私の世界にとっての重要な真実で、ただの私の習性で、ただの私の願望なんだ。

それは、解けない呪いでもなく、私を幸せから遠ざける思い込みでもなく、幸せ、というものを描く上で、私にとっては最重要事項なんだ。

ひとりでも幸せを感じられる自分になることも大事だけど、自分が本当に望むことに素直になることのほうが、よっぽど大事だ。

ふたりでも幸せだし、ひとりでも幸せ、が、理想だと思う。
いつもふたりだから、ひとりの時間も必要、それも当然だと思う。
ひとりでは幸せになれなくて、ふたりじゃないと幸せになれないのなら、それは苦しいと思う。


でも、私の場合は、ずっと、ひとりだった。
‟ふたり”があっての、‟ひとり”じゃない。

‟ひとり”しか、なかった。


そんな気がして、もう、ひとりは、存分に味わったのかもしれないなあと思った。

もう、ひとりは、飽きたよ、って、わがままで愛らしい小さい私がつぶやいてる。


もう、ひとりは、嫌だ。

ひとり、を楽しむための旅は、皮肉にも、そんなことを感じる旅になった。





*****





私は、ひとり、じゃなかったことがあっただろうか。


母親のお腹の中で、世界一大好きな人と繋がっている安心の海から飛び出た瞬間から、ある日鼓動が止まってしまうその瞬間まで、私たち人間は、きっと、ひとり、だ。

本当の意味では、生まれてから死ぬまで、みんな、ひとりで、それは、恋人がいようが、特別な存在がいようが、変わることはないのだと思う。



ただ、置かれた環境や、恋人の有無や、家族との距離感や、周りの人との関係性や、心のとらえ方や考え方、価値観で、その、ひとり、という感覚の色濃さが、人によって、違うだけ。

そして、私は、その感覚が人一倍鮮やかで、人一倍強く握りしめて生きてきた側の人間なんだと思う。




決めたんだ。
お母さんと別れた時に。


私はひとりでも、大丈夫になるって。


決めるしかなかった。
だって、どんなに願っても、お母さんは帰ってはこないのだから。

大丈夫になるしかなかった。
だって、お母さんがいなくなっても、私の心臓は止まらないし、明日は来てしまうし、私の毎日は続いていくのだから。



友達と上手くいかなくなって、無視されたとき。
みんなの輪に入れずに、ぽつんとしてしまうとき。
寂しくて悲しい気持ちを共有できなかったとき。
どれだけ好きでも、一緒にいられないとき。
私を好きだと言ってくれた人が、離れていくとき。
好きだった人が、遠い場所に行くと決めたとき。
好きだった人が、私ではない人と結婚したと知ったとき。


ああ、やっぱり、ひとりだって、確かめて生きてきた。


その、ひとり、の感覚は、私にとっては、生きてることの証であり、
‟お母さんがいた”という事実を証明するためのものだったのかもしれない。

ひとり、じゃなかったときの感覚を知っているから、こんなにも寂しいんだ。

たしかに、お母さんがいた。
私に触れて、私を抱きしめて、私に笑いかけていてくれた。

そのことを、幼い私は、握りしめていたかった。
心のどこかに、お母さんがいた隙間を、守っておかないと、お母さんが本当にいなくなってしまうような気がした。その隙間がなくなったら、私は私でなくなって、壊れてしまうような気がした。




お母さんの死から、23年経って、立ち直ったつもりでも、私の心は、まだ、その隙間を愛している。

私が寂しさを愛するのは、お母さんを愛してきた歴史。
どれだけ自分と向き合っても、どれだけ癒しを重ねても、寂しさを抱きしめることでしか、お母さんを愛せなかったあの頃の私を、私はまだまだ、手放したくないのだなあと、思う。

そして、ひとり、を愛しているけど、どこか寂しいのは、どこか強がって、どこか心の奥の奥で、我慢している気がするのは、私が、ひとり、を、どうにかこうにか頑張って受け入れてきた歴史。


あの時、6歳だった私は、ひとりになった。

ひとりになりたかったわけでも、望んだわけでもなく、突然、ひとり、は、私のもとにやってきた。


だから、ひとり、と、仲良くするしかなかった。

だって、ひとりを好きにならなければ、苦しいから。
ひとりでいられるようにならないと、生きていけないから。


家族みんなで、私をひとりにさせまいと、精一杯、愛を注いでくれたことも、わかっている。
誰も悪くないことも、わかっている。


それでも、私の、お母さん。
その、たったひとりを失ったことで、私の世界は、一度死んだも同然だった。


そんな世界で、私は、ひとり、を感じながら、生きてきた。

そんな風に生きてきたら、ひとりに慣れすぎて、ひとりでいられるようになろうとした時間が長すぎて、無防備な心で、心地よく誰かと一緒にいる方法が、わからなくなってしまった。


ひとり、というものは間違いなく必要で、愛しているのだけど、それでも、大人になる度に増えていった思考の層や、心にこびりついた思い込みを一つ一つ取り除いた先にある、一番最初のまだ何もない頃の感覚に戻ると、きっと、ひとり、は、私にとって、望んでいたものではなくて、そうでなければならなかったものだったのかもしれない、と思った。



ひとりになんて、なりたくなかった。
だけど、ひとりでも平気になるしか、なかった。




それが、私の本心なのかもしれない。







*****





この旅では、ひとりで行く、という他にも、自分の中で、挑戦をしてた。



ゲストハウスのような場所に泊まった。
たまたま同じ日に泊まる、始めましての人たちと、ベッドもシャワーも共有の宿。

ひとり暮らし歴が長いから、今や実家の布団ですら寝るまでに時間がかかる。
生活空間に人がいると、気を張ってしまって、疲れてしまう。


そんな感じだから、これまでの私だったら、そういう宿は選ばなかったと思う。
費用面で抑えられる、という理由もあったけれど、それ以上に、誰かのいる空間、というものを、楽しめる私がいたらいいな、と思った。

一人旅だからこそ、旅先の出会いとか、人との触れ合いとか、その日出会った人とお酒を交わすとか、そういうものを楽しめる私に、出会えることを、願ってみたくなった。
そういうものを楽しめるようになれば、ひとり、はもっと楽しくなるかもしれないと思った。
そういうのは、向いてない、そんな思い込みを外せるような気がした。



これまでと違う自分になるには、これまでと違うことをするしかない、そんな思いで、小さな勇気を出してみた。





でも、全然、上手くいかなかった。

宿について自分が眠るベッドを見た瞬間からすでに自分のベッドが恋しかったし、朝方まで眠れなかったし、湯船にもつかりたかったし、スキンケアもゆっくり存分にしたかったし、ちっとも心が休まらなくて、なんだか、悲しくなってしまった。


そういう場所が素敵であることは間違いないので、否定する気は一切ないのだけど、私には、向いてないことを実感した。
慣れてないだけ、かもしれないと思わなくはないけれど、これに慣れたい、とは、思わなかった。

今までだったら、そうなってしまう私のことを、責めていたかもしれないし、何てダメなやつなんだろう、と思ったかもしれない。


でも、それも、私だよな、と思えた。


好きなものは好きでいいし、嫌いなものは嫌いでいい。好き、にも、嫌い、にも、理由もないし、正解なんてなくていい。


そういえば、ずっと、好きではなかった。
中学校の頃の臨海学校も、登山も。いつもと違う場所で、自由にならない場所で、みんなと過ごす、ということが、得意じゃなかった。

本当は、少しだけ、期待してた。
大人になってナスが食べられるようになったように、あんなに避けてた刻みネギを料理に添えるようになったように、そういう性質も、大人になって、変わっていることもあるんじゃないかって。

でも、変わっていなかった。
これから変わることもあるかもしれないし、もうずっと変わらないのかもしれない。






もう、ひとりは嫌、と書いた後に、人といるのが嫌、と書いているのが、矛盾している気がするけれど、人間なんて、矛盾だらけでいいのだと思う。


もう、ひとりが嫌だと思う私も、ひとりを愛している私も、誰かの中で上手くやれない私も、いろんな私がいて、いい。

そういうものを、一つずつ受け入れて、否定せずに認めていくことが、自分を愛していくことなんだろう。





来年こそは、恋人と花火を見に熱海に行く、という7回目の決意に加えて、ゆったりとくつろげる温泉宿に泊まれるくらいのお金をちゃんと稼いでいる、という新たな決意を胸に刻み、私の夏は幕を閉じた。


あなたのサポートと、気持ちを受けとったら、きっとまた素敵な文章を生み出しちゃいます。応援に、文章でお返しし続けられるような、生きるアーティストでいたい。