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アパート【♯5】

 このアパートに決めた一番の利点はエレベーターがついていることだった。
運動機能の衰える難病のせいで歩行どころか首が座ることすらなかった次女。今はまだ幼くベビーカーで事足りているが、いずれは車椅子やベッド状の移動器具に頼る日が来るだろう。

 交通の便もよく、学校などの施設も潤う街に立つ細長いアパート。破格の家賃にしてエレベーターまで完備されているこの物件は大体にして満室御礼だ。

 りんの父親は大工だ。なので事務所ではなく、出勤となると直接現場に向かうことが多い。現場の距離では朝の5時に家を出ることもあるし、出張で離島に数泊することもあった。
 最近はこの街と事務所のほぼ真ん中に位置する公園の工事に携り、朝は8時ごろにゆっくりと出勤することができた。ここしばらく現場が近くて助かる。

 そんないつもより緩やかな出勤の日は、りんと共にアパートから出る。共にエレベーターで一階に降りエレベーターホールでお互いに「行ってきます」と別れる。
 りんはすぐに近くを通る友人と合流し登校する。
父はゴミを収集場に捨ててから工具を積んだ車に乗り込み、朝の渋滞に突入する。

 たまに、こんな遊びをする。アパートの階段とエレベーターが向かい合っている造りだからできる遊び。
 りんはエレベーターで一階へ。
 父は階段で一階へ。
どちらが早く一階に着くのか競争だ。

元々りん1人でエレベーターに乗ることは少なかった。だが家族や友人と一緒であればエレベーターに乗ることもある。
そんな中で生まれた遊び。
 スピードが一定のエレベーターに対して4階ほどの階数なら成人男性の駆け足でなんなく勝てる。
それにエレベーターだと他の住人も乗り合わせるので一階に着くまでにエレベーターが開閉で止まることがある。
勝敗は決まっているものの、朝から娘の機嫌を損ねる理由はない。エレベーターがついてから一階に到着するように駆け足のふりで娘の目の前に現れてやるのが週に2度ほどの習慣になりつつあった。

アパート自体数十年前の建物だし、平成初期の安価なエレベーター。今ほどサービス過多な代物ではない。
「ドアが閉まります」なんてアナウンスではなく、いちいち閉まるときに「ビー!」とサイレンの様なクラクションの様なお知らせ音が鳴り響く。
箱の中にいるときは閉じるのボタンで操作することで音は鳴らない。あまりに音がうるさいので、乗ってすぐ閉ボタンを押すのがマナーだった。
(その代わり開けるのボタンは押しっぱなしの間、一定の間隔で「ビー!………ビー!」と鳴り続ける)

なので競争の際にはアラームの音を確認する。そしてその音の合図で踊り場から駆け足で降りてくるふりをしてやるのだ。

その日の朝、エレベーターは一階に降りた状態で止まっていた。自分たちより先に降りた者がいたようだ。
同乗者もいないようなので例の競走をすることにした。

「お父さんは足が遅いから、今日もりんが勝つはずよ」
「分からんよー。1回ずつ止まればお父さんが先に着くさ。したら置いて先に行くからやー」
父は負けてやるものの実は負けず嫌いだった。

 エレベーターの箱が到着する。
 りんが乗り込む。
 父ににっこり笑いかけ「よーいとん!」と言う。 


音もなく、ドアが閉じた。
父もドアが閉まると同時背を向けて階段に走ったので違和感に気づけなかった。


 このエレベーター、バリアフリーなどの配慮はない。
ボタンはドア横の正面のみで、壁に低位置のボタンはない。そしてこの正面のみのボタンも細長くまあまあ高さがある。
 りんほど小さい低学年の子だと4.5階辺りはジャンプしないと届かない程の位置だった。
 なのでりんは自室の階のボタンが押せない。
下校の際には疲れていても階段を使わざるを得なかった。

 そんな不親切な設計で最も不親切だなと思われるのが、開閉ボタンが階数ボタンの上にあることだ。
りんがジャンプしても届かないボタン。
なので子どもだけでエレベーターに乗ると中に人が乗っていても閉じるボタンを押せないのであのアラームが鳴り響くのだ。


 そのアラームがならなかった。


父はエレベーターのドアが閉じると足を早めることなく階段を降りた。早く着く必要がないので。
一つ下の階に差し掛かったとき正面のエレベーターをふと見た。

一階のランプが点灯している。
あまりに早いと思うが、そこまで気に留めなかった。
階下の住人とかち合い。自然と同行することになったからだった。

「おはようございます」
「おはようございます。りんちゃんは一緒じゃないんだね」
「階段とエレベーターどちらが先に着くか勝負です」

階下のおじさんは父よりも年配で朗らかな人だ。
「運動不足だから階段を使おうと思っただけだが、りんちゃんに味方してしまったさー」
何気ない話をぽつぽつと交わしながら更に降りた2階。エレベーターは先ほど同じ一階だ。

一階エレベーターホールに着くと、階下のおじさんは「じゃ!」と言って先に街に向かっていった。
りんの父親はそれに軽く会釈し正面のみのエレベーターを見た。


 なぜか娘は居なかった。
いつもなら勝負に勝てた事を喜んで、やや意地悪そうなニヤニヤ笑顔であちらも階段に向かって正面を見ているはずなのに。

 ーーは?
 いつもと違う展開に呆けてしまった。

 なぜかエレベーターのドアは開いていて、その箱は天井に取り付けられたライトで明るく照らされているだけで空っぽだった。
あの、けたたましいアラームも鳴る事なく、静かにぽっかり開き続けている。



 朝の住人が外に繰り出す時間に、行ったり来たり忙しいハズのエレベーターが静かにそこにあり続けるのは奇妙だった。



「あー!だからエレベーター来なかったんだねー!」



急な大声に驚き振り向くと住人の管理人のお爺さんだった。90歳のヨボヨボで骨と皮の様な、こちらが心配になるくらい歩幅の狭く前傾姿勢のオジィだが、未だに人の手を借りず夫婦でアパートの管理人として生計を立てている。実は健康的なオジィ。


どこからそんな大声が出ているんだとドキドキしながら、オジィに挨拶してその手元を見ると札のような何かを複数持っていた。

「こんな朝からよー。エレベーターが動かないってわざわざ連絡してからに。起こされたさー。
故障かねー。危ないかも分からんから連絡しとこうねー」

オジィがヨタヨタとエレベーターに向かって歩くのを呆然と見ていると、オジィは片手で無理やりエレベーターの外ドアを閉じ始めた。


慌てて近寄り手伝いを申しで、ドアを閉めた。

真ん中から左右に分かれるタイプのドアは、片方を閉じると自然ともう片方も連動して閉じ始めたので手を挟まない様注意しながら閉じた。


一応と思い、オジィに問う。
「娘が1人でエレベーターに乗ったんだけど、降りたのを見てなくて…」
エレベーターは機械で動く、まさか何か故障の事故に巻き込まれただろうか。

いやでも、箱はそこにあるのに?

「いやぁ?あんたの娘はさっき階段から見えたよ。いつもここで遊んでる子たちと一緒だったから間違いないさー。今さっきのことよ」


ーーよかった。
とりあえずホッとした。
普段は絶対父親を待ってるハズの娘が、エレベーターの故障の日に限って、待っていなかった。
それだけの事だったのか。

少しカチンときたが、無事は確認できた。
ホッとした様子が伝わったのか、オジィはケケッと笑いながら、
「あんたはいいお父さんだねー。あんたも早く仕事行きなさい。オジィがエレベーターは連絡しとくからよー」
と言って、持っていたお札の様なものをペタッと貼った。


「故障中」と書かれたマグネットだった。
オジィはこれから全部の階を回ってエレベーターの一つ一つにこのマグネットを貼り付けに行くようだった。


手伝う時間はないが、ヨボヨボした足取りで10階近い階段を上り下りするのかと思うと気が咎めた。
階段を登り始めたオジィに気まずい思いがして、その背中を見送っていると。


「関係ないハズだけどよ。子どもたちが鬼ごっこでエレベーターも働きっぱなしさー。故障とは関係ないはずだけどねー。なんで壊れたかねー」



オジィの大きな独り言に、気まずさは別の方向にシフトした。
父親はそそくさと「…行きましょうねー」と言って逃げ出した。
逃げ出した父親の背中に、オジィのケケッという笑い声が聞こえた。



拍子抜けな朝だった。


小さい頃このオジィこそ幽霊に違いないと思ってました。それくらい歳をとっていたのに快活な働き者で、今思えば尊敬できる生涯現役の方でした。怖かったけど
私信:ホラー小説を読んだらやっぱりホラー小説とか怪談が好きなんだなぁって思いました。
タニさん、後押しになりました。ありがとうございます。コメント欄がないようなので、ここでご挨拶をば。

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