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知ってもらう大切さ、知る大切さ。

ここ最近の記事は、日常の出来事やnoteへの思いなどを書いていたので、私に障がいがあることを知らずに読んで、知らなかった…障がいの話なんて重たすぎる…と思った人がいたのではないかと考え、そうだ、プロフィール欄を書き替えよう!とひらめいた。

最初は、【アラフォーです。コーヒー、美味しいもの、お月見、音楽が好きです】 と、当たり障りのないことを書いた。それを、記事に時々出てくる障がいのことを、前情報として書き替えた。

アラフォーって書いてるけど……

往生際が悪いが、堂々と書く年齢ではなかった。書き替えを機に消したい…でも、幅広い世代がいるnoteなので、この年齢だからこそ、説得力があり、リアリティをもって読んでもらえることを期待しよう。

そして、障がいのことを書くと、どう受け取っていいか分からない方もきっと多いと思う。現実味のない話というか。身近に接する機会もなければなおさら。

誰の何のどこに響くかは分からないけれど、障がいとは言わずとも、何かしら誰にでも劣等感や短所のようなことがある中で、こんな人もいるんだ、自分はまだマシかもな、少し前向きに考えてみようという手がかりになれたならとてもうれしい。

そして何より、わたし自身、自分の障がいのことを日々考えているわけではないのだ。

悩みなんて千差万別だけれど、体のことに限らず、仕事や子育て、人間関係、親子関係、家庭での悩み、近所づきあい、自分自身の性格の悩みなど、上げたらきりがないくらいの悩みとよべるものがある中で、わたしには、足が不自由という悩みの割合が多いだけで、他にもたくさんの日常での悩みがあるのだ。

悩みなんて、きりがない。

どちらかと言えば、忘れたい。考えなければいい話で。

でも、必ず何かしら直面する場面がある。その時の対処法を知っておくことは必要だなと思う。

そして、自分の知らない誰かの気持ちや思いを知ろうとすることも大切だと思う。

知らないと、なんであの人ってこうなの?

なんで、こんなことできないの?となる。

これは、まさに子どもがそうで、自分と同じ年齢で、できない子がいるということに理解がまだむずかしいらしい。

たとえば、息子は算数が得意で、好きな教科らしい。

好きこそ物の上手なれというように、好きになれたからこそ得意と思えるのだ。

ある日聞いてみた。

「先生が学級通信に、3ケタの割り算がまだ苦手な子が多いって書いてたよ、まだできない友だちの気持ちわかる?」

「わからん。」

宿題をしてる横で聞くと、期待した答えが返ってきた。

できないことが多かった私は、最初からできる人には、その気持ちがわからないんじゃないかと思っていたからだ。

「そっかー、わからないんだー。まだできない子は、できないわけではなくて、わかるようになるまでに時間がかかるだけだと思うよ。いつかは分かるようになる時がくるし、得意なこと、苦手なことは、みんなちがうからね」という話をした。

現に、わたしは算数、数学が苦手だった。こうして文章を書くことは好きだから得意といえることになる。

小学校の担任の先生から聞いた話によると、算数が得意な彼は、たびたび放課後、居残りで算数問題に取り組んでいる友達のそばで教えているらしい。

分からない友だちがいることを理解し、得意とすることを誰かのためにつかえることは大切だと思った。

算数が得意なことよりも、分からない友だちに寄り添い行動できることが、生きていくうえでさらに大切だ。

そして、彼は親が足が不自由で、周りの友達の親とのちがいに、年齢的にもさすがに気づいている。 はずだ。

子供ふたりとも、たしかまだ4歳くらいのとき、一緒にお風呂に入るときに、わたしの足(足首が内反して、内側に向いている)を見て聞かれたことがある。

「どうして足がまがってるの??」

おー、きたか、その質問。と思い、どう答えようか少し考えた。

病名を伝え、難しく言ってもまだ分からないだろうと思い、

「えっとねー、生まれた時はまっすぐだったけど、病気で、大きくなって少しずつ曲がってきたんだよ」と言うと、自分の足と比べて、

「ふーん、ほら~、ぼくのはこうだよー、ぜんぜんちがうねー」と、自分の足を見せて言ってきた。

「よかったねー、顔がひとりひとりちがうのと同じで、手足もひとりひとりちがうんだよ」と話した。

すると、子どもっておもしろい。その後も、何度も何度も聞いてきた。

同じ質問を。はじめて聞くかのように。

あきらかに自分とのちがいを知って、単純になんで?どうして?ということに向き合っているようだった。

そのたびに、あれこれ例を出して伝えたり、一番わかりやすい、目が悪いとメガネをかけるのと同じで、足が悪いから、歩けるように装具もつけているのだということも話した。

そのうち、子ども達も理解したのか、わたしの足に見慣れたのか、何も聞かれなくなった。

中学1年と小学4年になったふたりは、今こそどう思っているんだろうと、今度は思春期でもある子どもに対して、わたしの方が気になりはじめた。

すると、今度は息子がわたしに質問してきた。

「もし、なにか願いごとが叶えてもらえるとしたら、どうする??ひとつだけだよ」

その質問にわたしは大人げなく、親の立場で、こんなこと子どもに言っていいのかなと少し躊躇したけれど、ウソはつけない。

「えっとね~。足が治って、ちゃんと歩いてみたいかなぁ~」とサラッと明るく答えた。

そしたら、「えー、歩けてるからいいじゃん!!」と私以上にサラッと言われてしまった。

どうしてひとつの願いをそんなことに使うのかというニュアンスで。

歩けてるからいい

そうか、子どもは私のことをそう受け止めているんだ。

元気で歩いている他の親を横目に、自分の親のことを恥ずかしいと思っているんじゃないかと気にしてしまっていたけれど、子どもが言った言葉は、わたしの思いを軽くしてくれた。

「そうか、そうだね、歩けるからいいよね」少し胸があつくなり、改めてそう思った。

きっと幼いころに、自分とちがう人がいることを知り、一緒に過ごしていく中で、それは当たり前になり、子どもにとって自然と身についた答えなんだろうと思った。

知ってもらうこと、知ろうとする大切さを、私はまさに今学んでいる。

むずかしい時もあるけれど、ちがいを認め合うのは、自分の生きやすさにも通じると思った。







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