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【いけばな】生けることと、生きること。

いけばなを習い始めて、この夏で丸7年になる。
師範のお免状もいただき、出産・海外渡航を経て、今住んでいる街でもお稽古を続けている。正直、飽きっぽい私がこんなに長く続けることができるとは全く思っていなかった。

いけばなを始めるきっかけは、我ながらかなり変わっていると思う。
2016年、恩田陸先生がピアノコンクールをテーマに執筆した小説、『蜜蜂と遠雷』を読んだ私は、ピアノではなく、いけばなを習うことを決めたのだ。

『蜜蜂と遠雷』では、天才ピアノ少年である風間塵と、いけばな師匠の冨樫氏との間に、こんな会話がある。

「活け花って矛盾してますよね。それこそ、自然界の中にあるものを切り取ったり、折ったりして、生きているかのように見せる。ある意味、殺生をしてわざわざ生きているように見せかけるのって、矛盾を感じませんか」
「感じるよ」「だけど、そもそも我々は何かを殺生しなくては生きてはいけないという矛盾した存在なんだ。(中略)だから、活けた一瞬を最上のものにするように努力している」
「(中略)最上の一瞬を作る瞬間は、活けている僕も最上の一瞬を生きていると実感できる。その瞬間は永遠でもあるんだから、永遠に生きているとも言えるね」

『蜜蜂と遠雷』恩田陸

その後、二人の会話は、音楽といけばなのの共通点、「ずっと世に留めておくことは出来ず、すぐ消えてしまう。でもその一瞬は永遠である」というテーマへと広がりを見せていく。

私は、このやりとりに胸を打たれてしまったのだ。

アンセリウムの花を分解して、一つの作品に構成             

仕事は楽しい。結婚して、公私ともに落ち着いた生活を送っている。
けれども「今後のキャリアはどうなっていくのか」「結婚したら、次は出産して子育てするのが普通なのか」と、常に「この先」を考えなくてはいけないような風潮を感じていた私は、「全力で一瞬を生きる」ことを学びたいと、切実に思うようになった。いけばなのお稽古に通うようになったのは、本を読んだ直後のことである。

ススキや竜胆、秋の花たち  

果たして、いけばなを通じて「いまここにある一瞬」を生きることが出来るようになったか。

もちろん、そう簡単に無の境地に辿り着けるわけがない。師範の免状をいただき、指導者の入り口に立った今でも、花をいけている時は、雑念ばかりである。

けれども、毎回のお稽古の度に、花の美しさにハッとし、自分たちの作品に花を使わせていただくことに後ろめたさを感じる。

ただただ美しい花たちを、土から切り離し、ほんの一瞬だけの作品に仕立てる。自分たちの烏滸がましさに恥入りながらも、自分が美しいと思う形に整えることで、やっと花に敬意を示すことができる気がするのだ。

木の枝を構成して、花をいける    

そして、花よりは長い私たちの人生も、本当に儚いのだとしみじみ思う。当たり前のように思える日常も、大切な人たちとの思い出も、手のひらからすり抜けていくように流れていってしまう。いくら写真や動画に残しても、記憶に留めておこうとしても、同じ時間を過ごすことは二度と出来ない。

すぐに消えてしまうからといって、無に帰すのではない。一瞬でも確かに在ったものは尊く、美しい。自分たちは尊い毎日を生きていることを、花をいける時にふと思う。

一番基本の型のいけばな 

浅はかながら、お稽古が終わると、すぐに日常の尊さのことなんて忘れてしまう。でも、お稽古を重ねて、何度も何度も想起することで、一瞬をより強く心に留めて置けますように。ささやかながら、そんな願いを、いけばなに託している。


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