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フェミニズムと権力

①キリスト教徒

聖書の中にはさまざまなタイプの弱者が登場する。この書では、無力なイエスが、なぜキリストになったのかという問が投げかけられるのだが、それとは別に弱い使徒が、どのようにして強くなったかという問題も提出されている。強くなった使徒の代表はペテロだ。マタイによる福音書で、ペテロはイエスの預言通り3回、イエスを否認する。そして、預言通りになったことで、泣く。これは弱い人間の所業である。イエスは強い人間であり、自らの信仰に基づき処刑される。しかし、ペテロも、最終的にはローマで殉教したと伝えられている。つまりペテロも強い弱者となる。

弱者には、内的には弱いが外的には強いタイプと内的にも外的にも弱いタイプがいる。ペテロは前者でユダは後者だった。ペテロは性格的には弱い人間であったが、原始キリスト教会で重要な地位を占め、イエスに教会の礎となると言わしめ、初代ローマ教皇となった。それに対して、ユダはイエスを売った後悔で自殺した。ユダは最後まで単なる弱者のままだった。


②フェミニスト

内的には弱くても外的には強い人間とは、自分には甘く他人に強く出るような人間である。フェミニストは、そういうタイプの人間かもしれない。彼らが自分が弱者と規定するのを揶揄する人達がいるようだが、フェミニストは内的には弱い人間だと考えると、別におかしくはない。彼らの情緒不安定な様子は、精神的な脆弱さを示している。もちろん、彼らの言説はすでに権力性を帯びており、実際、政治権力に影響を及ぼすようになっているから、彼らが外的に弱者などということはない。むしろ彼らは強者と言うべきであろう。彼らは聖書で言えば、ペテロタイプの弱者とも言えるだろう。


僧侶は自らが生息している社会を現世と呼び、それを否定することで来世の優位を主張して無力な自身を来世への道案内とすることで、権力を獲得した。

ニーチェは、僧侶は宗教に権力の匂いを嗅ぎつけたと非難し、僧侶が権力者になっていくプロセスを描こうとした。この僧侶をフェミニスト、宗教をフェミニズムに変えれば、フェミニストの所業がよく解るであろう。フェミニストは自らが生息する社会を男社会として否定し、彼らが理想とする社会への導き手として権力を要求し、それに成功した。フェミニストと現代社会との関係と、かつての僧侶と中世社会との関係との間にはアナロジーが成立するであろう。
ユダヤ=キリスト教からマルクス主義、そしてフェミニズムへの流れはしばしば言及されるところではあるが、弱者権力の問題として考察の対象になると思う。


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