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14. already know it

 彼の両親の家ではなく、彼の部屋で暮らすという選択肢。さらに、家族で暮らすには不便な立地だから、と聖サリエル病院へのバス路線沿い、スーパーマーケットの近く、この町にもアクセスしやすい場所。私と猫さんがいいとさえ言えば、そんな場所に会社ごと引っ越したいという彼。
「ムービンゆうた? うち、ほんに詳しいから、おせたげる。ムービンゆうのは、うっとこが変わることー。カリカリやらなんやらくれる人間が変わることー。ほんまは、やらこいのばかりもらえるようになることー」
 柔らかいのばかりもらえるようになるのはどうかと思う。引っ越ししても私たちは変わらない、と猫さんに説明する。
「うっとこが変わるだけ、上手いこと言うわ」
 それからはあっという間だった。物件の内覧、引っ越しの見積もり、荷造り。不用品は業者が回収してくれるので、最低限の荷物を纏める。転出届。三回目のキイトルーダ点滴とその一週間後の診察の間に引っ越しは終わった。
 新しい部屋は3LDKのマンションだった。広いリビングには今までのように三つのデスクと植物が置かれた。寝室は南に面していて、夜は月と星が見えた。私の庭から運んだ植物はベランダに並べた。彼の車で運んだホーリーバジルとディル、ルーとワイルドストロベリーのプランター。花屋さんに相談して、フィカス、ローズマリー、クランベリー、クリスマスローズのプランターは引き取ってもらった。
 診察の日、初めてのバス停でバスを待つ。家から二十分程度で病院に着く。あれから一度、四十度を超える熱が出たけれど二日で下がった。相変わらず下痢が続いていることを伝えて、引き続きカロナールと胃薬、整腸剤、毎朝晩のインライタが処方された。
 葉の茂るハナミズキ。二台のベンチ。礼拝堂のステンドグラスと十字架。病院は変わらないけれど、私が帰る先は変わってしまった。ひとりで生きていないということはこういうことなんだ、と思う。生きやすいということと自由だということはまるで違う。別館の礼拝堂には一度も行ったことがない。クリスチャンではなくても入れるのだろうかと十字架を見上げた。




 あまり雨が降らなかった梅雨が明け、四回目のキイトルーダ点滴の日が来た。車だと十五分程度で病院に着く。受付の機械が動く前から順番に座り、受付の機械に診察券を通し、問診、点滴が終わるまで二時間近くかかるのだけれど、彼は時間を潰しているから、と待っていてくれた。
 病院の庭を通り、初めて別館に向かう。外からでは想像できないほどに高い天井を目掛けて、三枚のステンドグラスが聳えている。薄暗い礼拝堂の長椅子に、彼は座っていた。隣に腰を下ろし、頭上のステンドグラスに祈る。暗闇を切り抜く三本の光たちが見下ろしている空間には、静謐な時間が流れていた。
 横浜横須賀道路を三十分くらい走り、逗子インターから逗葉新道に入る。ひさしぶりのカフェで、結婚と引っ越しのことを報告し、入院や通院でなかなか訪れられなかったことを詫びた。
「今日はお代はいただきません。ささやかですが、ご結婚のお祝いです」
「そんな、お支払いします——」
 そういうつもりで報告したわけでは、といいかけたとき彼が口を開いた。
「ありがとうございます。それほど遠くに越したわけではないので、また二人で来ますね。とてもおいしかったです。ごちそうさまでした」
 彼に倣い喜びとお礼を伝えた。
「いえいえ、こちらこそ、いつもありがとうございます」
 すてきなかただね、車に戻った彼が言う。
「うん。たまに寄らせてもらうと親しくしてくれるの。家が近かったから外で会うと声をかけてくれたし。一度ね、ほかに誰もお客さんがいないときにサブライムをかけてくれたんだよ。サブスクでランダム再生してくれた」
 数分走るとギャラリーの駐車場に着いた。今日はセラミック作家の展示が行われている。
「怜子(さとこ)さん! お久しぶり! ショートにしたんだ。とても似合ってる」
「ご無沙汰してます」
「どうしてた? 元気にしてた? ちょうど昨日だったかな、お風呂のときにふと怜子さんのことが浮かんだの」
 ギャラリーのオーナーの栞(しおり)さんにも近況を報告した。
「わあ。ご結婚。すてきなご報告をありがとう。いままで彼のことお聞きしてなかったから、少しびっくりした。モデルさんをされてそう」
「中川功(なかがわおさむ)です。フリーで翻訳をしています」
「おさむさん。鈴木栞です。ここのオーナーをさせてもらってます。どうぞゆっくり見ていってください」
 ギャラリーの通りに面した大きな窓は、いつもと違い淡い黄色のモスリンで覆われている。壁から床へ、曲線を描くチューブライトも淡い黄色に光り、テーブルや床にさまざまな白い陶器が置かれていた。大きな皿たちに造形されたメッセージの "KEEP COOL & LIGHT" と "KEEP COOL AND DARK" がこの空間とリンクしている。ハーブと魚があしらわれた大皿がいちばん気になり写真に撮らせてもらった。彼は不思議なオーバルの形をした皿を二つ手にしている。
「こちらは私が購入して、ご結婚のお祝いにさせてください」
「——こんなに良いものを、ありがとうございます」
「とんでもないです。またいらしてくださいね。怜子さん、お体お大事に」