脳の使い方で人生が変わるに出逢うまでMy story②
前回の内容、15歳で1人オーストラリアへはこちら
https://note.com/aimybrain/n/n8e1e42fb88d7
元々海外の生活に強い憧れを持っていたわけではないけれど、オーストラリアに到着して真っ青な空を見上げた時、とっても気分が良かったのは今でもよーく憶えている。
16歳ホームステイを飛び出し一人暮らしへ
そして、英語力ゼロで始まった新生活、まぁ、言いたい事が伝わらない。
どれくらい伝わらないかと言うと、全く伝わらない(笑)
それでもお友達はたくさん出来た。学校生活は本当に楽しかった。
でも、ホームステイは当たり外れがあり、身の危険を感じた事もあっり、16歳でホームステイを飛び出して1人暮らし。留学センターの契約解除は、さすがに親に少し反対されたけど、「信じて!」の一言で納得してもらった。
自分で勝手に決めた事だけど、この時に、どっと責任がのしかかってきた気がした。
留学生あるあるコンプレックス
大学は現地の高校生と一緒に受験し、第一希望の大学に合格。アジア&オセアニア地域でTOP5に入る事もある素晴らしい大学だった。
大学の授業は予想以上に厳しくて、次の週までに課題図書3冊読んできてとかざらで、仮病を使って〆切を伸ばしてもらったり(先生ごめんなさい)、クラスメートに手伝ってもらってなんとかクリアしてきた。
大学には当然オーストラリアで生まれた日本人の子もいる。その子達はもちろん超バイリンガル。性格もオープンで、自分の意見を持っていて、憧れと共に、本物にはかなわないな~といつも感じていた。
もちろん私は日常会話は出来たし、学校の授業もパスしてきたけれど、ビジネスで大金が動くという場面で私の英語は通用しない。彼女たちと私、企業が採用するのは彼女たちに決まっている。
当時の私は全てが英語力だけで決まると思い込んでいたので、オーストラリアで就職する事は全く考えていなかった。
そうだ、私にはディズニーランドで働く夢がある!LAでもフロリダでもなく、東京ディズニーランドで(笑)
そのために、中国語と韓国語も専攻し、少しの英語コンプレックスをかかえたまま日本に帰国。
就職活動が始まり、はりきってオリエンタルランドに書類を提出し、一次試験で落ちる…。
私の6年間はなんだったの~私そんなに変な事書いたかな…と思いつつ、IT企業に就職。
IT嫌いがIT会社で得たもの
外資系なのに英語とは無縁の会社で、英語を使う事はなかった。周りからはもったいない!って何度も言われたけど、
私がオーストラリアで得たものは、挑戦する気持ち、諦めない気持ち、違いを受けて相手を尊重する気持ちと強く感じていたので、自分の中では英語はその次だった。
留学中はあんなに英語力にこだわっていたのに、一歩外に出ると見える景色が変わるもんなんだな~。
パソコンの設定も1人で出来ない私がITの会社…。当然分からない事だらけというか、知ってることが1つもない。
私が配属された部門は、電話だけで、企業の役員相手に、経営課題を伺い、コンサルティング等のビジネスに繋げるというプレセールス。毎朝日経新聞と有価証券報告書をチェックして、自分なりのシナリオを作っていざアプローチ。IBMの看板はやっぱり強く、初めましてから始まり、素晴らしい経営層の方々とお話させて頂いた。
電話は相手の顔が見えない。訪問と違い突撃アタックの中でお客様と信頼関係を築く術をたくさん学んだ。このお客様に会いたいと営業さんにリクエストされたお客様の訪問許可を頂いた時は、すごく喜ばれた。
営業さんは社内営業も上手。3倍くらい大げさに褒めてくれるので、営業さんのために頑張った。今思うと、お客様よりも営業さんをみてお仕事していた。
それでも誰かのために頑張るというのが自分には心地よかった。
でも、いざビジネスが進むと私は蚊帳の外。大きなプロジェクト、時には大トラブルでかけずりまわる営業さんを見ては、私には荷が重すぎる…と感じる一方で、私も最後までお客様のプロジェクトを見届けたいという思いはいつも心の片隅にあった。
でも、そのたびに思い出す、そうだった私はITが苦手だったんだと(笑)
勉強会の講師を頼まれる事も多かった。ITが苦手な私が作る資料は、同じくITが苦手な人でも100%理解できる位に分かりやすい。
だって私が理解出来るんだから。
当日は気づかなかったけど、「相手に伝わる言葉の選び方」「分かりやすい説明」、自然に脳を上手に使っていたんだなと今だから分かる。
そうか、私のIT知識の無さが、今の私の大事な一部分なんだ。
パート3へ続く…
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