何かを生み出すことでしか想いを届けられないなと思った話
前回の記事で,自分のやっていること,馳せている未来があまりに多岐にわたってしまったという話をした.自分自身,それは受け入れざるを得ない自分の生来的な性格だったり嗜好だったりするので仕方がないし,自分自身が一番幸せと思う瞬間はその先にあるから構わないのだが,とかく他人に自己紹介するのは非常に困難になった.
そうやってやりたいことが多岐にわたってしまうと,時間をうまく使うのが難しくなる.うまく時間を使いたくて悩んでいるうちに1日が過ぎてしまったり,ちょっとした不安で時間を過ごしてしまったりと苦悩する時間が多くなった.
そういった苦悩にnoteをずっと書き続けていくうちに思い立った.その苦悩は単にメモ書きした程度では想い起こせない瞬間芸術だ.その瞬間にひどく感動したことや,感傷に浸った想いをどうにかして言葉で表現しても,メモ帳に書き殴っても,後になってメモをみた時には,当時の臨場感は想い起こされないのだと知った.あのときの心震える自分には二度となれはしない.それを表現するのは,その想いをせめて未来の自分だけにでも届けるには,もう少し情報量が必要みたいだと思ったので今日はそんな話.
目に見えないものに想いを馳せ,仮の形でも与えるべきだ
うじうじ悩まず手を動かせ。いや、うじうじ悩みながらも手を動かせ。苦悩や苛立ち焦燥感さえも形を持たせてしまえ。ひたすら形作った物全てを愛でながら、それら全てを捨ててまた創造しろ。
僕が心を奪われるのは,僕が心震えるのはいつだって,形のないものばかりだ.人々の想いだったり,愛だったり,悲しみに情動を揺さぶられて涙する.しかし,僕らはそれをどんな手段で受け取っていただろう?
きっと,その情動を内側に起こすものはすべて何かしら形になったものからだ.僕らは想いを形のないまま伝えることは苦手だ.文章にしたり,絵にしたり,歌にしたり,映像にしたりするしか方法がない.そしてそれらは全て,想いを量子化する行為だ.量子化する過程で抜け落ちた想いや受け取れない想いがきっとそこにはある.気持ちを完全に伝えられるほどの解像度の高い媒体はない.
それは未来の自分に宛てたものでさえ,完全には伝わらないし,あの時の気持ちには二度と戻れない.常に僕たちは変化していくし,それは元に戻すことができない不可逆過程だ.あの頃に自分には出会えないし,あの頃の自分が見た景色と同じものをもう一度見ることはできない.
苦悩する日々はまるで溢れる想いが重ねた指の隙間から零れ落ちていくようだ.その時の苦悩は確かにあって,何よりも想いを表現しようとしているのに,生まれていくものはちりのように散らばって,やがて日常に溶け込んでいってしまう.そして,やがてその苦悩の日々があったことも忘れていくのだろう.
今までの僕は,知らず知らずのうちに蓋をして無視していた自分の想いと,向き合うようになったと思っていた.それは自分の内側の声に耳を傾けて,自問して,受け取って,肯定していくような行為だ.しかし,それでは不完全だったんだ.僕は最も身近な自分という存在の悲痛な叫びを聞いて,受け取って,最期を看取って,それこそが自分と向き合う行為だと思っていた.
しかし,それではまだ十分ではなかった.看取った友人の亡骸を墓に弔ってやっていなかったようだ.その場に放置して風化して風とともに空へ溶かしていって,やがてその事も忘れてしまっていたのだろう.彼の想いを忘れてしまわないように,そしてまた戻ってきて手を合わせられるように,僕は彼に仮でも形を与えるべきだったんだ.
きっとそれらを僕は作品と呼ぶのだと思う.それは”彼”が在ったことの証明だ.そして,”彼”の存在の肯定だ.そうして初めて自分と向き合って自分を大切にすることができるのだろう.
作品を残すということは自分の魂を分け与えることだ
作品はある時点での自分の分身だ.自分の魂を分け与えることだ.ここで作品は決してアート作品だけではないと思う.自分が創造した全てのモノは作品だ.それは誰かに頼まれて作ったモノかもしれない.しかし,そこに自分の想いを必ず宿っているのだ.
僕たちは子孫の繁栄を本能的に欲している.それは魂の意味でもきっと同じなんだ.僕らは生まれた瞬間から新たなモノを創造する天才だ.自分の分身を創り続けて,魂を分け与えて,自分の魂が宿った存在を創り続けていくことは,おそらく僕らが持っている生存本能のひとつなのだ.自分から離れて育っていく魂を,そのまま蒸発させてしまわないために,僕らは魂の宿る器として形を与えて,送り届けてあげる必要があるのだと思う.
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