理想が現実に起こることだけを、しあわせと信じていた
「目の前にかぼちゃの馬車があらわれなくとも、幸せだったか?」
シンデレラはなんと答えるのだろう。
シンデレラは毎日、そうじ、洗濯、料理と家事に追われ、森のなかまと戯れながら、継母に虐げられたむすめ。
そのなかでも、毎日しあわせを感じていたのだろうか?
それとも・・・
森の動物たちに「継母にブスって言われた。ひどすぎる・・・。」と、愚痴を言ったり。
「お母さんが生きていればこんなことにはならなかったのに!」「お父さんのせいだ!」と、念をこめながら食事を作ったり、イライラしながら家のほこりを掃いていたのだろうか。
舞踏会の知らせが届き「わたしも行きたい!」と希望を持った。
その瞬間にシンデレラができることへ、力を尽くした。
ドレスを手作りしたり、継母に舞踏会に行くと申し出たり。
そうして1度は危ぶまれても、目の前に現れた舞踏会への道。
もしもあの時、魔法使いが現れなかったら…。
それでも幸せだと、そう言える未来があったのだろうか…?
シンデレラの話は、わりと好きだ。
ひとりだけ遅れて登場する、その割に、王子とちょっとしゃべったら早々に帰る。
多くを語らずミステリアスな印象を残すとか、
あとから見つけられるように靴を落とすなど。
令和で言うところのあざといテクニックがふんだんに使われていて面白い。
(そんなふうに見るやつなんかいないだろうが)
虐げられたむすめが、玉の輿婚。
これで幸せになるという夢みせてくれる。
結婚すればしあわせ。
お金持ちを捕まえれば安心。
いじめた者たちを見返す。
世間一般のしあわせとはこれだ!という姿をいとも簡単に幼少期からすりこませてくれる。
(わたし、ちょっとひねくれてる?(笑))
だから、この文章を書いているパート主婦のわたしも、理想を描いたら現実に叶わないと意味がないと思い込んでいた。
お城も舞踏会も王子様との結婚も、憧れたことはないけれど。
たとえば、クッキーが食べたいと思ったら…。
目の前に現れないと不幸だ。
わたしは幸せじゃない。
こうしたいと思ったのに、できないのだから。
…というように。
キラキラした生活ではないから、幸せじゃない。
誰もが憧れるような理想を叶えていないから、幸せじゃない。
描いた夢も、叶わないから、わたしは幸せになれない。
わたしには、いじめる継母も義理の姉もいない。
命令されたわけでもなく、自ら洗濯、掃除をして、食事をつくり、あたたかいご飯を食べている。
かわいい子どもを産み育て、スマホを持ち、
好きなアイドルをいつでも眺めることができる。じめじめと暑い夜も、クーラーの効いた部屋で、ぐっすり眠れるというのに。
シンデレラがどう感じたかは、
シンデレラにしかわからない。
だからこそ、わたしがどう感じるかも、
わたしにしかわからない。
他人と比べ足りないモノを数え、美しく着かざり魅せるための世界を憧れるべき世界と思いこむ。
今ある喜びは、小さすぎて当たり前に在るもの。
そこに幸せはないと定義するのも、わたしが決めたことだ。
それならば、叶わなくても叶っても、こうなりたいを描いていもいい。
今の生活でも、こんな喜びがある、と数えてみてもいいじゃないか。
叶っていないと意味がない?
そう思うほどに、叶わない現実にこだわっているのはわたしなのだ。
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