儀式のない礼節

野球や駅伝・オリンピック、昔から、スポーツの類は一切見ない。村上(神)様といわれても、春樹か龍のどちらか悩むくらい疎い。そんな僕が過去に一度だけずっと見ていたのが2002年の日韓ワールドカップだ。その頃の僕は、田舎の小さくて暇な雀荘で勤務していて、お客さんや学生バイトの子と一緒になって麻雀そっちのけで、ロナウドやオリバーカーンの活躍をみていた。今では麻雀はやってないし、そこで知り合った方々と連絡を取り合うこともない。ごく一部の方もFacebookで繋がりがあるくらいだ。

 先日たまたま開いたFacebookのタイムラインに、一緒にワールドカップを見ていたお客さんの1人が「ステージⅣのガンであること」「覚悟はしていたが改めてショックを受けていること」をカミングアウトしていた。リプ欄には「心中お察しします」というようなコメントが継がれる。僕自身は普段からSNSにコメントなんてしないし、そもそもなんと声をかけたらいいのか、紡ぐ言葉がない。一度は見なかったふりをしたのだが、何か引っかかるものがあり、勇気を出してと書き込んだ。「お元気そうですね。麻雀でもしましょうか。俺が引導を渡してやりますよ」。17年くらいぶりのコミュニケーションだ。

 礼儀やデリカシーを欠いた生意気な歳下の口の利き方をとても面白がってもらえた。早速次の土曜日、昼から昔のメンバーを掻き集めて麻雀、僕はおもしろいように負けた。夜は仲間のやっている居酒屋やラウンジで、昔話に花を咲かせた。会話の端々に恐怖と虚勢を感じ、そのたびに憎まれ口をたたいた。「みんな気を使って誰も誘ってくれないし、何も言ってくれないんだ。」と別れ際に愚痴をこぼしたのを聞いて、誰かが「写真を撮ろう」といいだしたが、それを「深夜でもう暗いから次回にしようよ」と提案をして拒んだ。「そうしよう」と皆が同意をしてくれたが、やせ細った本人を目の前に、次回があるかなんてわからないと皆が思っただろう。そうしてそのまま解散した。

 卒業や恋愛・退職から今生の別れまで、別れの挨拶は人それぞれだ。「活躍をお祈りする」といった儀礼的な文面をお送りする人もいれば、黙って見送るという人もいる。ただ僕は儀式ばった「礼儀」はこの場にそぐわないと感じた。「借りを作らないように99900円の現金をもっておき、おつりを作らずにお金をお支払いできるようにしておく」「写真は取らず、今回の邂逅を記念にしない」というくらいの礼節がちょうど良い。

 「別れそのものは悲しいが『別れが惜しいと思える人』がいるということ、そんな人と出会えた自分の人生は本当に幸せだ。」こんな思いで日々を過ごせればよいなと思う。

 どうかお元気で心健やかにお過ごしください。また会えると嬉しいです。

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