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シングルマザーという選択。


私が離婚するなんて・・・。
自分ごとでありながらも、
どこか他人事のように感じてしまうのは、
離婚というものは、
どこかで自分には関係のない世界のことで、

ごく一部の、
ごく僅かな人がする稀な選択のことであり、

ましてや子ども(1歳)がいる身で
別れるという選択を自分自身がするなんて思ってもみなかった。

私や元夫も、
身内に離婚した人もいなければ、
身近に離婚した人もいなかった。


お互いに自分たちが
離婚するはずがないと
思っていた。

お互いの両親たちは
共に仲が良かったし、
私たちも仲がよかった。

しかし、
「離婚」という選択をせざるを得なかったのは、

お互いの「価値観」に対する
許容の差が原因だった。

離婚はどちらかが一方的に
問題があるように見えても
そんなことは決してない。
(認めたくはないが・・・w)

相手のDVや借金問題、
不倫などでさえも、
そうさせてしまった原因が
必ず自分の中にあると考えなければ、
相手を責め続けたり、恨んでみたり、
セカンドステージに立たされたとき、
同じことを繰り返す可能性だってある。

セカンドステージは確実な
キャリアアップだ。

いやそうであって欲しい。(という願望w)

後悔や反省も必要ないとしても、
トライアンドエラーの精神がないと
前には進まない。

人生は
前進することしかできないのだと
身を持って体験していたタイミングで、
ちょうど、ホアキンフェニックス主演の映画

カモンカモンを観に行った。
(随分と久しぶりに映画館に行った)

カモンカモンというのは、

先へ先へという意味で

引き返さないというのが
この映画のルール。

令和のこの時代にシロクロという
ある意味斬新な試みの映画であったが、
今の状況下にある私にとったら、
感慨深いものがあった。

子育てというのは、
机上の空論では成り立たない。

事件は、
会議室ではなく現場で起きている!

と青島デカも言っていたように(世代がバレるw)

子育ては、

理想ではなく現実で起きている!

ということを目の当たりにさせられるわけだ。
というよりせざるを得ない。


なんで?
どうして?

と理想と現実の差で悩んでしまうのは、


誰かの子育て論に振り回されている証だ。

かくいう私もそのその1人だったし、
今でもその1人であると思う。

自分以外の全ての人の
人生がうまくいっているように見えていたし、

自分以外の全ての人の子育てが
うまくいっているように見えてしまっていた。

それは、
自分自身が見たいと思うようにしか現実を
見ていなかったし、
そうあって欲しいと願っていたからだ。

そして、
何より親はこうあるべきではないのかという理想像に自分自身が振り回されていたことにハッと気付かされた。

子育ては、

ノールール!

それがルールである。

10人いれば10通りの子育てがあり、
100人いれば100通りの子育てがある。


夫婦だって同じ。

つい、


「なんでこんな相手を選んだんだろう」
と思ってしまったり、

「なんでこんな人だと見抜けなかったんだろう」
と自暴自棄になってしまうかもしれない。

でも、

「なんでこんな相手にしてしまったのだろう」
と考えることができると、

自分の中に原因があると分かる。

私の場合は、

完璧な妻であり、
完璧な嫁であり、
完璧な母でありたかった。

そして、
同じことを
相手に求めてしまったのかもしれない。

家庭は円満で、
夫婦仲は良好で
何の問題もないと思い込みたかったし、
そう思われたかった。

そんな自分に疲れた。

私は完璧ではないし、
相手も完璧ではない。

当然ながら、
パーフェクトな人間なんていないし、

パーフェクトな夫婦関係も存在しない。

別れたたからと言って
すぐに全ての悩みから解放されるわけでもない。

実際に今も、
元夫との関係性に悩んでいる。

その1番の理由は
子どものこと。

お互いにとって
子どもについて思うことがあるわけで、
どちらか一方の意見では決められないことだって山積みだ。

何より自分の選択が子どもに良くも悪くも影響することを考えるとさすがに慎重になってしまう。

だからこそ、
自分たちにとってベターな関係性を常に
模索するしかないと思う。

自分以外の誰かと比べたところで、
それは比較対象にはならない。

だって、

世の中には2種類の人間しかいないらしい。

俺か、俺以外か。w

そう。

私か、私以外。w

前例がなければ作ればいい。/ローランド

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