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他人の日常に夢を見るなかれ。

毎日何時間もの時間を
他人の日常を見るために
時間を費やしているのだろうか。

他人に見せている
日常にどれほどの
リアリティがあるのだろうか。

どこへ行き、
何を食べ
何を買い、
誰に会ったなど。

正直
どうでもいい。

他人の日常生活と
私生活を比べ、

一気一憂し、
優越感と劣等感を繰り返し、
ジェットコースターのような感情に
持て遊ばされていることにも気づかない。


いいね!の数や
観覧者の数が
あなたの価値なのだろうか?

いいね!の数や
観覧者の数が
わたしの価値なのだろうか?

いいね!は
幸せになる万能薬でも
特効薬でもない。

やればやるほど
もっともっと欲しくなる
ドラックと同じ。

気づいた頃には
人生が狂わされているのだ。


あなたの苦しみも
わたしの苦しみも知らない

あなたのホンネも
わたしのホンネも知らない

SNSだけで繋がった
名ばかりの友だちの賞賛や承認に
何の価値があるのだろうか。

他人に
見せる日常に
どれだけの意味が
あるのだろうか。

他人が
見せる日常が
どれだけの意味を
もたらすのだろうか。

他者との比較で
形成された自己は

他者との比較で
崩壊したとしても、

他者はあなたに責任など
とってくれはしない。

都合が悪くなれば、
わたしは悪くないと
あなたを責めるだろう。

それを
自己責任と
あなたのどうでもいい人は
あざ笑う。

賞賛はいずれ
妬みの対象になり、
承認はいずれ、
批判の対象になるだろう。


見せかけの優しさや
言葉やパフォーマンスはいらない。

あなたもわたしも
誰かにとって
どうでもいい人なのだから。

誰かのどうでもいい人のために
生きる必要などどこにもない。

誰かにとってのゴシップも、
所詮ゴミにしか過ぎない。

あなたのゴシップも
わたしのゴシップも
誰かの娯楽の対象にしか
過ぎない。

だから
気にしなくていい。

あなたが何をしようが
わたしが何をしようが
誰も興味がないのだから。

ゴミの様な情報を
鵜呑みにして、
評論家ぶってる奴らの
マネごとをし、

『自分はわかっています。』

とばかりに
騙されていることにも
気づかない。

洗脳されてる!
と言う奴らの方が
よっぽど洗脳されているのだから
放っておけばいい。

そんな奴らに
何をわかって
欲しいと言うのだろうか。

むしろ、
わかってくれるな!
と思わないだろうか。

誰かのいいね!
を信じる前に
自分のいいね!
を信じてみる。

もちろんそこには
何の保険も保証もない。

間違うことや
失敗だってあるはずだ。
後悔することだってあるはずだ。

それでいいじゃないか。
それの何が悪いというのか?

あなたがいいね!と思った
感性こそが素晴らしいことで、
誰かのいいね!と違うことが
あなたの感性なのだから。



食べログや
誰かのレビューでしか
決められないのなら
物事の本質は掴めない。

誰かの評価は
誰かのものでしかない。

あなたがどう感じるのか?
わたしがどう感じるのか?
を知りたい。

エビデンスは、
過去の前例でしかない。


安全な環境に身を追いて
現状に不平・不満を言ったところで
何も問題は解決しない。



息は吐いてからではないと
吸えない。

吸いまくるから
過呼吸になるのだ。

破壊しなければ
創造は
できない。


何一つ手放すまいと
握りしめて
潰すのではない。

ぶっ壊す!

クソみたいなプライドを
握りしめて守るほど
大切な自分だったのか?

クソみたいな世間体を
気にして、
自分を失うほど
世の中は腐ってしまっているのか?

ゴミから
希望を見出せるのなら、

ゴミから
奇跡を見出すこともできるはずだ。

勇気なんて大それたものは
いらない。

あなたが思っている崖も
わたしが思っている崖も

誰かにとっての
段差にしか過ぎない。

恐れることなんて
何一つない。

今日も誰かが
その崖をぶっ壊してくれているから。

他人の日常に
夢を見ても
その夢もまた
他人のものに過ぎない。

他人の真似事をして
手に入れたものは
虚偽の幸せであって

それはあなたの幸せでも
わたしの幸せでもない。

軽蔑や侮辱こそ、
ホンネの承認と賞賛なのでは
ないだろうか。






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