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【あい講義】民主主義における正統性とは何か?

休日出勤の今日、学校についてPCを開いたら生徒から勉強の質問メールがきていた。やる気があって、大変よろしい。

今日から、先生に教えていただいた政治学の勉強を始めました。
1章の1節から始めたんですが、2つ教えていただきたく、メールしました。

質問はどちらも直接民主制のことなのですが、メリットデメリットを教科書やネットを活用して、自分なりにまとめてみました。その際、メリットとして直接民主制は正統性が高い、と書いてありました。
自分の考えでは、有権者(全員)が投票することにどう正統性が高いのか見当がつきません。母曰く、投票した人の意見は反映されるから、と言われたのですが、あまりピンときません。(以下略)

ふむふむ。すばらしい。

まず、ちゃんと専門科目の勉強に取り組みはじめたことが偉い。教科書を読んで疑問が出てきたというのも良い。学習者あるあるなのは、教科書を読んでいると、素直に受け取りすぎて案外疑問が出てこなかったりすること。だから、疑問を持てるというのはそれだけで偉い。さらに、教科書を読んでお母さんにも聞いてみたのもよろしい。20歳の女の子が「わからへん〜」とか言いながらお母さんに政治学の質問を投げる。想像するだけで微笑ましい。家族仲が良好な様子にもキュンとする。有権者が投票するタイプの民主主義は、多分直接民主制ではなく間接民主制だけど、そこはまぁいいでしょう。「投票した人の意見が反映されるから」というお母様の模範的な解答に、「理屈ではわからんこともないけど、ピンとこぉへんもん」とプリプリしてる彼女の様子が目に浮かぶようで、かわいい。納得できないことに素直に反発できるそのマインドは、批判的精神だからこれからも大事にしてほしい。

こういう頼られ方が大好物な私は、このメールを読んでメラメラ燃えた。そして、ありったけの集中力を使って、今日のほかの仕事そっちのけで一気に返信メールを書き上げた。そしたらちょっとした小論になったので、今日は私の返信をそのままnoteの記事にしたいと思う。今日のスキ♡はきっと少ない・・・

では私の政治学メール講義、ご笑覧あれ。

なお、彼女が読んでいる教科書は川出良枝・谷口将紀『政治学』東京大学出版会、2012年です。

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メールありがとうございます。
すばらしいですね。うれしく拝読しました。
また、大変いい質問だと思います。

第1章はかなり難しい内容が容易な言葉で説明されている章です。
一見読みやすいのですが、深く理解しようとするとあなたのような疑問が出てくるのは当然です。
第1章の理解度が、ほかの単元の理解度、しいては政治学全体の理解度を左右するので、時間がかかってもしっかり押さえましょう!

長くなるので、2つの質問を2便のメールに分割してお答えします。
このメールでは、直接民主制の正統性についてお答えいたします。

さて、答えるにあたり、直接民主制に限定せず、民主主義一般に置き換えて考えてみますね。民主主義のメリット・デメリットを掴めたら、直接民主制/間接民主制のメリット・デメリットもスッと理解できるはずですから。

(ちなみに、有権者の投票は直接民主制ではなく間接民主制の方だけど・・・そこはOK??)

■ 民主主義における政治的正統性とはなにか?

(1)権力と正統性

政治現象を理解するにあたり、正統性(正当性とも書く、legitimacy)の問題は根源的なポイントの1つです。また、正統性の問題は、権力(power)という概念と密接に関連しています。そこで、まずは正統性と権力の概念についてご説明します。

政治現象とは、権力を用いた社会における諸問題の解決、価値の配分、あるいは権力そのものを求める争いの過程だといえます。そして、権力とは、「社会関係の中で、抵抗に逆らってまで自己の意思を貫徹する」力だといえます(堀江・岡沢:1997, 86)。わかりやすくいえば、人になんらかの形で服従を強いることを権力といい、権力をもちいて公共の諸問題を解決するためのあらゆるプロセスのことを政治というわけです。

権力の形態は、さまざまです。君主制のように、一人の王様がすべての権力を掌握している場合もあれば(これはイメージしやすいですね)、権威主義体制のように、支配政党や軍など特定の集団のみが全権を握っているパターンもあります。あるいは民主主義体制のように、司法・立法・行政に権力を分散させているパターンもあります。

ところで、権力は、上述のように人の意思・抵抗にさからってまで服従を強いる力なので、「なんであんたの命令に従わなきゃいけないのよ」という相手の文句を黙らせるだけの正当な根拠が必要となります。これが正統性の問題です。

たとえば私が、学生のみんなに課題を課すとき、みんなは「え~めんどくさい~」と思っても、私の側は、そんなみんなの気持ちは無視して強制的に課題を課しているといえます。これは、私が一種の権力を行使している形になっているわけですが、私が権力を行使できるのは、みんなが自らの意思で入学した学校の教員という立場に私がいるからです。つまり、教員であることが権力の源泉、私の権力の正統性になるということです。もし、先生を辞めてただの一個人に戻った場合、みんなに勉強や課題を強制する正統性は失われます。同様に、警察官が通行人を呼び止めて職質を行うことができるのも、警察官には警察権と呼ばれる公権力を行使できる正統性を与えられているからですね。もしただの一個人が通行人を呼び止めて名前や職業などを質問したら、ただのナンパか不審者になってしまいます。このように、権力と正統性の問題は、実は日常のいたるところに網の目のように張り巡らされているのですが、民主主義の正統性は、その問題を国家レベルにまで広げているだけのことです。

(2)国家における権力と正統性

上述のように、権力とは相手の意思にかかわらずなんらかの服従を強制する力なわけですが、この力を国家のような単位で行使するとき、これを統治と呼びます

権力を行使する側が統治者、そして服従する側が被統治者です。なお、「被」という漢字は「他者から~される」という受動態の意味を表します。これ、地味に重要(ほかの例に選挙権と被選挙権などがありますね)。

権力は、いったん獲得されるとその維持のために多くの犠牲が払われます。物理的強制力もそのための重大な手段です。たとえばミャンマーでは、クーデターにより軍部が全権を掌握したものの、その後市民の反発を黙らせるために多数の犠牲者が出ていますね。コロナ禍では、日本政府は感染拡大を食い止めるために緊急事態宣言という形で国民のあらゆる社会・経済活動に制限をかけましたが、その強制の犠牲として様々な助成金を設置せねばならず、財政的犠牲が肥大化しています。

このように、権力の維持には、人や金など膨大なコストがかかります。そのため、安定的に権力を維持するために一番手っ取り早いのは、被統治者(服従する人たち)から、その権力者が権力を持っていること、また権力者がその権力を行使することが正しいという風に認められる状態をつくることです。もし被統治者がその権力者からの強制に納得していれば、その社会は安定的に統治することができるでしょう。

(3)民主主義と正統性

民主主義の定義は、民主主義のどのような側面にライトをあてるかで様々に表現できますが、権力と正統性の点からみれば、「統治者と被統治者が一致する政治体制」だといえます。リンカーンの「人民の人民による人民のための政治」はこの本質をズバリ言い換えた有名なセリフです。これは、権力の正統性の源泉が、その社会の構成員全員に由来している政治のことと言い換えることもできるでしょう。

では、統治者と被統治者が一致した政治体制を実現させるためには、どうしたらいいと思いますか?

一番の理想は、直接民主制のように、関係者全員が集まって、全員で社会の問題について議論して、全員で決定することでしょう。その場合、権力を行使する正統性は、直接自分たち自身にあるため、「私たちで決めたから」と納得できますよね。

しかし近代国家のように、膨大な人口を抱える社会では、全員が政治的意思決定のプロセスに参加することは非現実的です。そこで、代表者を選んで、私たちがもつ権力を代表者に委任するという形をとるアイディアが採用されています。これが代表制民主主義です。また、代表者に権力を委任するということで、民主主義の運営は間接的になりますから、間接民主主義とも呼ばれます。

では、その代表者はどのようにして選ぶべきでしょうか?私たち有権者を代表する人物は、一度選ばれたら権力者になるわけですから、有権者(=主権者)である私たち全員が結果に納得できるような方法でなければなりません。そこで、投票(=選挙)という仕組みが採用されます。

主権者(主たる権力者という漢字ですね)である私たち有権者が、全員平等に一人一票を投じて、その結果により代表者を決定する。これが普通選挙です。菅内閣も、トランプ前大統領も、テレビを観ていて「こいつやべーな」とどれだけ思ったとしても、彼らはクーデターとかではなく選挙という方法で選出された権力者ですよね。そしてその選挙は、不正がなく、公正で合法的な手続きのもと運営されていると一応は信じることができます。だから、彼らの権力の源泉、つまり権力の正統性は国民ひとりひとりに由来しているといえるです。少なくとも、仕組みの上ではそのようになっています。また同時に、彼らによる権力の行使は、適切な手続きによって作成された法律に従っているために、やはり正統性が生じると考えられます(堀江・岡沢:1997, 93)。

1億人以上の人口がいる日本では、自分の一票に重みを感じられず、「選挙に行ったからって、自分の声が反映されるわけでもないし」と無力感に襲われます。自分が統治者の一人だとか、主権者の一人だとかいわれても、ピンとこないのは当然です。私だって自分が主権者であると心から実感をもっているわけではありません。

でも、どれだけ現政権に不満があっても、あるいは、自分の思想や考え方と違う政党が政権についているとしても、「それでもこの人は選挙で選ばれてるんだ。正しい手続きを経て多くの人が選んだんだから、まぁ仕方ない」という事実があるため、なんとか自分を納得させることはできます。

それに、もし本気で不満があれば、異論を表明したり、新たな政党を立ち上げる権利が民主主義にはあります。そのように考えれば、民主主義の正統性は、選挙を通じて自分の意見を反映させることができるからというだけではなさそうです。むしろ、権力者に不満がある場合においても、なんらかの形で不満を表明していく方法がちゃんと確保されているという点が重要なのかもしれません。たとえば政府(代表者)に対して不満があったとき、その不満を心に抱き、公然と表明し、仲間を集め、行動に起こす自由(思想の自由、表現の自由、出版の自由、結社の自由)が私たちにはある。そういう権利がちゃんとあるのに、わざわざ行動に起こさないとすれば、それはその人の選択ですよね。

結論

民主主義体制においては、有権者が投票するというステップがあることによって、権力者の権力の源泉を有権者に由来した形をつくることができます。民主主義体制においては、統治者は先祖代々天皇家だからとか、習近平が指名したからとかではなく、有権者が自分たちの代表として統治者を選ぶ形となっています。それゆえ、少なくとも理論上、統治者と被統治者が一致した体制だといえ、統治者が権力を行使する正統性を有権者の意思に求めることができます。そのような意味で、民主主義は、ほかの政治制度に比べて、正統性の高い政治の理念や制度だということができます。


★おまけ
権力の正統性の問題について、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは「支配の3類型」という形で整理しました。①カリスマ的正当性、②伝統的正当性、③合法的正当性です。ネットで正統性のことをしらべるなら、ウェーバーを検索キーワードに加えるといいかもしれません。

★本メールを執筆するにあたって参考にした文献
堀江湛、岡沢憲芙編『現代政治学第二版』法学書院、1997年

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note読者の中に、もしここまで読んでくださった方がいたら、めちゃくちゃ嬉しいです。ありがとうー!!




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