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「死」を受け止められないわけ
命あるものは必ず、死と隣り合わせに生きている。だが、変わらない日常は、そのような非日常的な現実を忘れさせてしまう。いつものように始まる毎日は私たちをひたすらに甘やかし、「まだ終わりは遠くない。」と根拠のない確信を与えるのだ。
五年前に大好きな祖父が他界し、しばらく虚無感から抜け出せずにいた。別れを受け止められない悲しみと同時に、自分の幸せだった過去を知る人が一人減ってしまった辛さを痛感したからだ。
幼い頃の幸せだった記憶を知る人が次々に減っていくのかと思うと人生はとても儚い。生きた分だけ想い出ができ、それを共有できる人々との素敵な出逢いがたくさんある。でも共にその記憶を語ることのできる人々が歳を重ねていくうちに減っていく。
出逢いの数だけ、本当に別れがある。なかなか人は、その規則を理解しがたい。いつもいつも「消えない」とどこかで思っている。「今じゃない」と。その根拠のない安堵が、一生残る傷跡のような後悔を導く。つまり、いつも自分達の知識に心が追いつかないのだ。
誰かが「明日〇〇ちゃん(私の名前)は死ぬかもしれないんだから、〇〇ちゃんの好きなように生きなよ。」と言った。当たり前だけど、とても奥深かった。それは単純なはずの「好きなように」生きることがいつも、できていないから。
死ぬ覚悟なんてできていない。明日死ぬのではないかと考えられない。だから一日に当たり前のように数え切れないほどの無念と後悔を残し、明日を待つ。
本当の「大切な人との死別が受け止められないわけ」とは、自分達の大切な記憶を、語る人も、知る人も、消えてしまったからなのかもしれない。
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