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礎となるもの(インドと私②)

こんにちは。
ライフストーリー インタビュアー/心理カウンセラーの 真中愛です。


のつづき)
インド行きの話が来たとき、私たち夫婦の間には1歳を迎える息子がいました。

当時私は息子連れで実家に帰らせていただいており、インド行きの話を持ってきてくれた知人を交え、夫婦の問題に向き合うことになりました。
なんやかんやの話し合いを経て最終的に一家でインドへ行くという決断をふたりで下したことで、夫婦問題はひとまずの決着を見る形となりました。
その一方で、「1歳の子どもがいる」ということは、インド行きを考えるうえで私たち夫婦の間ではなぜかまったく懸念材料になりませんでした。
というか夫婦とインドで手いっぱいで、ほぼほぼその存在を無視していた形。笑

1歳半の子どもを連れて、インドへ移住。
今考えるほうがむしろ空恐ろしいのですが、当時の私たちには不思議なほど不安要素が全くなく、インド行きを決めた瞬間から、この子の人生にとっても最高の財産になる、というポジティブな面しか見えていませんでした。
最大の理由は、決断の過程でインドへの情熱がすっかり取り戻されたとき、あの旅行中と寸分たがわぬ信頼感もセットでそこにあったから。
インドが私たちの息子、私たち一家に悪さをするなんてありえない、というような、絶対的な確信があったのです。


だからインドに渡ってすぐの頃から、旅行中にも愛好していた路上のリヤカー営業のマンゴージュースとか、真っ黒な油で揚げたサモサとか、平気で息子に与えてました(※注※ 激しく推奨しません!!)。
さらに恐ろしいことに息子には当時指しゃぶりの癖があり(ちなみに帰国までその癖を貫きました)、どこのなにを触ったのか分からない指をしょっちゅう口に入れていましたが、6年間病気らしい病気をすることはついぞありませんでした(私は腸チフスを一度やりました)。


そうして息子は1歳から7歳(小1)まで、インドですくすく育ちました。
3年間の幼稚園と小学校1年間は、日本人学校ではなくともに現地の学校に入れました。

「インドに対する信頼感」

今思い返してみても、これが私たちのインド生活6年間の根底をずっと支え続けていたものだったと思います。



帰国して7年が経ち、息子は14歳になりました。
ヒンディ語もすっかり忘れ去り、インドレストランで最初に出てくるマサラ(スパイス)たっぷりのスープに悶絶してますが(カレーは大好き)、
彼の礎となっているのは、あのインドでの6年間です。

インドの空気、インドの水、インドのごはん(ほぼマサラ味)、インドのおやつ(ほぼマサラ味)、指を通して口にしたもの。笑
出会った友だち、毎日遊んだ公園、近所の人の笑顔の声かけ、路上の牛、街中どこでも目にする神像、地に沁みる歴史、あの土地で天と地ににつながって育つ中で起こったあらゆるものごと。
そういうすべてが今の彼をつくっている。体をかたちづくる当時の細胞はとうに死に絶えていても、彼の深いところにある一部分は確かにそれらでできている。
それは確かにとても不思議な縁であるのと同時に、きっとほかの誰でもない、彼自身が望んで選んだ道。
だからこそ彼をかの地に連れてゆくことに、私たち夫婦になんの迷いもなかったんだと思うのです。


そしてそれは誰にとっても同じことであり。
私は愛知の片田舎で天と地につながって、生まれてきた世界を深く愛しながら何不自由のない環境で大切に育てられ、大きくなるにつれ内面を愛する家族にどんどん浸食されてゆき、傷つき苦しみながらも両手をいっぱいに広げてすべてを受け入れていました。

私自身の、私だけの礎。
それを望み、選び、決めたことに、良い悪いはない。優も劣もない。
ただそういう事実があっただけ。
その礎があって、私は私自身を、そして息子を、インドに連れて行くことができたのだから。

インドを後にしてもうずいぶん時間が経ったけれど、そんな想いとともに幼い息子を中心に過ごした日々を思い返すたび、あの場所で生きていた頃独特の、深い自由の感触がぶわっとよみがえってくる。
自分の芯が問答無用で晒されるような、それを世界が喜びを持って受け入れてくれるような。
今は遠く離れてしまったその感触があまりに懐かしくて、やっぱりきっと恋しくて、胸の奥があたたかくもひりひりと痛みを帯びるのです。


さて一方で、渡印わずか3か月後に、会社の事実上の事業進出撤退によりインドで職なしとなった私たち一家のその後はというと。

そんな苦境に立ちながらもインドに対する絶大な信頼感はなおも衰えず、笑
その甲斐あってか、現地に進出している企業をほんの数社当たったところで、すぐにとある日本企業を紹介されました。
それはなんと夫の専門分野を扱う会社。
今振り返ってもちょっと考えられないくらいに出来すぎてる!

まだしばらく居たらいいよ、ということだったのかもしれません。


こうして、当時インドではまだ珍しかった「日本企業の現地法人による、現地採用の日本人」(つまり本社籍駐在員ではなく、まわりのインド人と同じ採用基準)という形ながらも、あっという間に新しい就職先が決まりました。


現地採用なので会社が生活面の面倒を見てくれることは基本的にありません。
正式に内定をもらった後、自分たちで物件を探して住む場所を決めて契約し(何事もむちゃむちゃなインドにあっては途方もなくたいへんな作業)、インドで初の引っ越しを敢行(同じく途方もなくたいへんな作業)。
ようやく地が固まった私たち一家は、晴れてインドでの生活を再スタートさせました。



△▽△▽△ 本日の 真中 愛 △▽△▽△
(ではぜんぜんない、13年も前)

2008年、渡印したばかりの頃、当時住んでいた家の近所の公園で。
外国人はほぼいない超ローカルエリアで洋服だと目立つので、外出時は大好きなサルワール・カミーズと呼ばれるインド服。
遊びに来ていたメイン層は、路上に限りなく近い住環境の子どもたち。


■真中 愛【ライフストーリー インタビュー/カウンセリング】

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