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好き継続時間と自己肯定感と一文の長さの話

 自分が大切にしきれなかったものが、誰かにとことん愛されていることを知ると、安堵の溜息が洩れる。それは決して自分の過去を強調したいわけではなく、むしろ、不良品の自分が生み出した罪を、誰かが肩代わりしてくれているような、そんな有難い話である。

 それにしても、心に決めたその人のことをずっと大切にし続けられる人を見ると、どこでそんな術を習ったのかと聞きたくなる。素晴らしい才能だと私は思う。就活で自己アピールとして話せるんじゃないかしら。

 まあこんなことをここで書いてしまうと、自分はそれとは逆の人間だということがバレてしまうし、万が一これを読んでいる誰かとこの先一緒になるようなことがあった時、信用を得られないような、非常に厄介な話ではある。

 長く思い続けられないなら、人を思うことすら辞めて仕舞えばいいという、短絡的な思考回路に行き着いた結果が今の私であるが、それもまあ一時的なもので、おそらく数年するかしないかのうちに、きっといつものあの子に浮ついた話を聞かせるんだろう。とはいえ、これは私が物心ついてからの人生史上最長記録。人に関心が持てない時間の話である。惚れっぽい私はどこへ消えたか。

 自己肯定感が高いという話はどこかでしたようなしなかったような。正味、自己肯定感は高いが、それが恋愛となると、自己肯定感がほぼない。多分。

 そもそも、自分を世に言う女らしい女だと認識していないところに要因がある。むしろ定義されるような女になることを嫌っているが、やはり異性と恋愛をすることを考えると、どうにもこうにも女という要素が求められている気がしてしまって、そうなると自分には価値がないように思われる。

 じゃあ同性相手なら自己肯定感が高まるのか、と問われるとそれもノーと答えるだろう。自分がなりたい理想像と自分はかけ離れすぎている。それでもどうにか近づこうと騙し騙し装ってみるが、街中を歩いていて自分よりも自分の理想に近い人を見てしまうと、自分の装いが馬鹿馬鹿しく思えて、無力感に殺されそうになる。

 恋愛において、自分自身への不満足感が相手にも派生してしまい、なぜか矛先が相手にも向かう。自分で言うのも本当に変な話だけれど、過去の人たちには本当に不幸な思いをさせたのだろうと常々反省している。それぞれがもっとそれぞれを大切に思ってくれる人と幸せになってくれれば私の罪悪感は払拭されるので、卑劣な人間だがそれを願っている。だが掘り返したくはない。

 結局、今日は何が言いたいかわからないけれど、好きが持続する人たちへの尊敬の意を込めて。これ、めちゃくちゃ恥ずかしい記事だけど、久しぶりだから赤裸々に話す時があってもいいよねって。
 死ぬほど一文が長いのは悪い癖でそれを直そうと心に決めたけれど、やっぱり自分のことを話すには、一文が長い方が似合うと思ってしまう。ほらね。


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