散文
わたしは、一生のうちティースプーン一杯ほどだと言われているホルモンに自分のLIFEをかき乱されたくないし、気圧変化への過敏さなんかは、現代ではいらんだろと思うから捨て去ってしまいたい。
なのに。
食欲と性欲と睡眠欲をこよなく愛している。
で。最近の私の思いをここに吐き出しておこうと思う。
人はみんな違う。一人ひとりが違う。当たり前のことなんだけれど、わたしはザクッとカテゴライズしてしまうときがある。
過去の自分の経験と結びつけ、「あの人はこういう人だ」「あの人は私と似てる」「あの人とあの人は似た者同士だ」といった感じ。眼の前の人を見ないで過去の自分の経験と照らし合わせて、結びつけて、カテゴライズする。
…自分のフィルターが、目の前を曇らせる。
相手はそこにいるのに、見ていない。
しかし、この件については岸田さんのこの記事
100年後に“不幸”なわたしへ (コテンラジオ〜障害者の歴史〜)|岸田奈美|NamiKishida @namikishida #note https://note.kishidanami.com/n/n6f000cbec1d0
で見事に頭がスッキリとした。
思考の癖ってあるけれど、その癖を知ることができれば、変えることができそうだなって気がついた。
現に、私は自分で自分を怒ってしまう独り言をやめた。ピタリと。「んじゃあ、これからどうやってく?」「あの時、すごく嫌だったけど、どうしてそんなに嫌だった?」「解決できそう?」って自分で自分に聞けるようになったら、自分のことを自分で怒って罵って、ってことがなくなった。
これはかなり大きな変化だ。
そうなってくると、問題発生時もおのずと冷静にいられるようになった。
眼の前でギャーギャー言われてもダメージ回避の為に脳みそで処理するようにして、相手の気持を心では受け取らないようにした。どうしても感情的な言葉は感情に刺さる。それを回避するには冷静さが必要で。相手をよく観察して冷静に思考する。こうすればうまくダメージ回避ができた。
私はちょっと過去の出来事の色々で、男性の怒りの感情はすごく苦手だし、弱いものへの暴力なんてもうそりゃ無理で。
あと、不機嫌な顔や雰囲気で威圧をかけてきたり、私を否定しかしない母がすごく嫌で、いろんな要因も重なりアホほどに病んだ。
でも、それはすべて私が弱かったからじゃない、相手が弱かったからだ、困ってたからだ、わからなかったからだってことも今となっては知っている。
可愛そうだったあの時の私を、今は大事に抱きしめてあげることができる。
ようするに、過去の出来事として処理することができている。
そんな私だから、思考の癖を変えることができても、やっぱりちょっと嫌な気持ちが呼び起こされちゃう時がきっとこれからもある。
カテゴライズして差別して、自分を守ることに必死になってしまうこともあると思う。
自分で自分にイライラして怒って罵ることもあるかもしれない。
でも、ある人が言ってくれたんだ。
「そんなふうになったらやること」を決めておけばいいんじゃない?って。
スラダンの映画でもそんなシーンがあったことを思い出す。
リョータは、「手のひらを見る」だった。
わたしは、何にしようかな。
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