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サディズム・マゾヒズムとは何か?/ドゥルーズ『ザッヘル=マゾッホ紹介』から学ぶ【1】

最近では、SやMという言葉が日常的に使われる。虐められて喜ぶ人はM虐めて楽しむ人はS、というように漠然とSMは区別される。その一方で、Mを「変態」として扱う社会通念もあるように感じる。では、SとMの本質的な違いは何だろうか?

今回は、ドゥルーズによる『ザッヘル=マゾッホ紹介』をテキストとして、サディズム・マゾヒズムの特徴を簡単にまとめる。SMについて学ぶことで、くすぐりにおける「ぐり」や「ぐら」を深く理解するための一助としたい。

テキストの紹介

河出文庫『ザッヘル=マゾッホ紹介:冷淡なものと残酷なもの』
ジル・ドゥルーズ(著)/堀千晶(訳)
2018年 河出書房新社

サドとマゾッホの作品比較

「サディズム」という言葉は、フランスの貴族で小説家、マルキ・ド・サド(Marquis de Sade)に由来する。サドの作品は暴力的で、バスチーユ牢獄の獄中で執筆された『ソドム百二十日』や、日本では猥褻文書として扱われた『悪徳の栄え』が有名である。

一方、「マゾヒズム」という言葉は、オ―ストリア帝国(レンベルク)生まれの小説家、ザッヘル=マゾッホ(Leopold von Sacher-Masoch)に由来する。彼も貴族である。マゾッホの作品では特に『毛皮を着たヴィーナス』が有名である。

サディズムとマゾヒズムはしばしば、対立するものとして語られる。しかしドゥルーズによれば、それほど単純なものでは無いようだ。ここではテキストに従ってサドとマゾッホの作品を比較し、その特徴をまとめてみたい。サディズムとマゾヒズムの本質的な違いを探してみよう。

マゾッホの言語

ドゥルーズが指摘するように、マゾッホの作品で特筆すべきは、その品位である。例えば、一人の士官チェジム・ヤデフスキと3人の女の子(アニッタ、ヘンリカ、カティンカ)が追いかけっこする場面には次のような描写がある。

「誰が狼になるの。」ヘンリカが尋ねた。
もちろんヤデフスキさんよ。」アニッタが言った。
「それで、あなたたちは何をするんですか。」剣をはずしながら、チェジムが尋ねた。
「私たちは狼を追い詰める猟犬よ。」
「捕まえられたら、狼はどうなるのですか。」
「そのときは、狼は私たちの言うことを何でも聞くのよ。

マゾッホ『ドラゴミラ:魂を漁る女』p.95
(太字は引用者による)

この文章には、卑猥な言葉が全く見当たらない。しかし、チェジムが辱められる描写なのである。彼は否応なく「狼」の役を与えられ、3人の女の子から追いかけられる。さらに、捕まえられたら何でも言うことを聞かねばならない。ところが、チェジムは剣をはずして遊びに参加する。

この文章を初めて読んだとき、漠然としたゾワゾワ感を感じた方もいるのではないだろうか。ここに現れる雰囲気こそが、マゾヒズム的な幻想である。他にも、馬たちが前足を縛られていたり、女性の短靴から酒を飲んだりと、マゾヒズムを醸し出す描写は枚挙にいとまがない。

マゾッホの作品では、性的な描写よりもむしろ、民族的な慣習無邪気な戯れ、さらには愛国心にまでマゾヒズム的な幻想を見い出すことができる。つまり、官能的な表現を排除しつつ「二次的な恩恵」としてマゾヒズムが表現されるのである。

一方で、官能的な描写を含まないことは、私たちにプラトニックな感情を抱かせる。特に、拷問者への従属、犠牲者が受ける責め苦は、身体から芸術作品、芸術作品からイデアへと上昇する契機となる。

マゾッホの主人公は、全権を握った一人の女性により教育されるかのように見える。しかし実際には、主人公の方が女性を教育し、自らを罵倒する言葉すら教え込んでいる。すなわち、鞭を握った「教師」たる拷問者に対して、犠牲者は「教育者」となるのである。このように、役割や言語の分配には反転、二重化が起こり、主人公の弁証法的な精神が見い出される。

サドの言語

サドの作品では、二つの自然(二次的自然と一次的自然)の理解が不可欠である。

まず、二次的自然は「おのれ自身の規則とおのれ自身の法にしたがう自然」(p.38)と定義される。そこには、否定的なものがいたるところにある。しかし、否定的なものはすべて、死や破壊の部分過程であることに気付く。無秩序は他の秩序、死は生の裏返しでしかないのである。そこで、サドの主人公たちは、自らの犯罪がちっぽけなものでしかなく、絶対的な犯罪が不可能であることに幻滅する。

それに対して、一次的自然は「純粋否定の担い手」(p.39)である。原初的なカオスを夢見る、理性そのものの妄想である。それゆえ、純粋否定は理念(イデア)の対象となる。自我、あるいは我々の経験は必然的に、二次的自然に属するが、一次的自然は二次的自然のみならず、おのれ自身の自我をも否定する力を持つ。「悪徳は無感情」と言われるように、サディストは自我すらも否定することによって強烈な快を得るのである。これをドゥルーズは論証の快と呼んでいる。

サディズムにおける無感情は、言い換えれば、単調さ、冷淡さである。サディストは二次的自然で引き起こされる苦痛を無限に増殖し、再生産することを欲する。そこで重要になるのが論証機能なのである。論証的な思考は、描写機能をともなって苦痛を加速し、圧縮する。したがって、量的にも質的にも精緻な描写、特に猥褻な描写の仲介によって、残酷な行為が実行へと移される。

マゾッホの理想主義

再びマゾッホの作品に注目しよう。マゾッホの理想主義は、思いのほか単純なものである。それは、「世界が完璧なものだと信じることではなく、逆に『翼をつけ』、この世界から夢のなかへと逃走すること」(p.48)である。ドゥルーズは、否認宙吊りというキーワードを用いて説明している。

否認:現実から幻想へ

サドの作品の「否定」とマゾッホの作品の「否認」は、全く異なるものである。テキストではフロイトの考え方を取り入れて説明されているが、これは、偏ったジェンダー認識(例えば同性愛嫌悪)をもとにした議論であり、個人的に同意しにくい部分もあるため省略する。

しかし「否認」という観点の重要性は、現代でも色あせてはいない。すなわち、現代な視点からは「受け入れがたい現実を認めず、軽く目を逸らす」程度の意味合いでも十分なように感じる。自分にないものを認めようとしなかったり、理不尽な世の中から目を逸らしたりするのは、人間的である。

宙吊り:理想を幻想の中に

マゾヒストが現実を否認するとき、自らを宙吊りにする。緊縛であったり、吊りであったり、磔であったり、マゾヒズムの情景には肉体的な宙吊りが欠かせない。それに加え、主体のうち一方は現実を認識しながらもその認識を宙吊りにし、もう一方は宙吊りになって理想にぶら下がる。この二重の宙吊り状態によって、現実に対抗する理想を追い求めながらも、現実の認識から受ける損害を巧みに最小化することができる。

宙吊りは、文学的にも表現される。広く芸術作品は、しぐさや姿勢を宙吊りにすることによって主題を永遠化する。マゾッホの作品では、「振り下ろされることのない鞭」や「踏み続けられる犠牲者」といった描写を通して、マゾヒズム的な情景が凝固し、宙吊りにされることがある。このように宙吊りになった情景は、犠牲者視点から、期待=待機という枠組みのための重要なイメージとなる(詳細は第2回に続く)。

まとめ

ここまで、サディズムとマゾヒズムの特徴を、ドゥルーズの論理に従いながら比較した。簡単にまとめれば図1のようになる。サディズムとマゾヒズムは決して裏返しの関係ではないことが分かるだろう。互いに対立するものとして扱われることの多い両者だが、実は独立したものとして捉えることもできるのである。

第2回では特に「マゾヒズム」に注目し、その性質をより詳しく検討する。加えて、マゾヒズム的な視点から「くすぐり」について考えてみたいと思う。

図1 サディズムとマゾヒズムの比較

参考文献

レオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホ(著)/藤川芳朗(訳)(1998)『ドラゴミラ:魂を漁る女』初版 同学社

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