見出し画像

4月19日「接客」

仕事を終えて美容室へ向かう。
二ヶ月近く放置してしまった髪はだらしなく伸びきっており、前髪は涙袋を隠すくらいまで到達している。
散髪は僕の中で面倒ランキングの上位に座している。髪質が少し特殊なことが原因だった。細くてしっかりとした直毛なおかげで、ワックスで遊べなかったり、パーマのかかりが悪かったり、学生の間に通るカッコつけをほとんどすることができなかったから、髪型に対する執着がほとんどなかった。
性格的にも、寝癖が直ればそれで外に出られる。最低限以外に手を加えない。
とはいえ、だらしない髪が目にかかるのは鬱陶しいので仕方なく散髪に向かう。

前回に初めてカットをお願いした美容室だった。個人で美容師をしている人達が集まるお店で、その中で店長をしている女性が担当だった。店長っていうかリーダーですねー、とゲラゲラ笑いながら言っていた。
また来ようと決めたのはカットの腕もあるのだけれど、そのトークに魅せられたからだった。数ある業界の中でも美容師の接客スキルは群を抜いているなとは常々思ってはいたが、リーダーはレベルが違った。己の話の引き出しと、こちらへの引き出し方がうまかった。
そのうえ馬が合った。趣味が似ていたし、接客モードと私生活モードの切り替えが透けて見えて、それも自分に似ているように思えた。
手を止めて話す時間があったせいで、50分のカットのところを100分かけて切り終えた時に、ああ、また来ようと思った。二倍の時間も長く感じなかったからだ。

おひさしぶりです、とドアをくぐると客は誰もいなかった。閉店間際の最後の客のようだった。美容師もリーダー一人だけだった。鏡の前の席へと案内されてカットはどうするかを伝えて切り始めてもらった。
今日の晩ご飯の話になり、レンジの中で食べ物を爆発させる常習犯なんですよーとゲラゲラ話してくれた。その上、火にかけたままシャワーを済ませたりするせいで、たまにボヤになりかけたりもするらしかった。クレイジーな話ばかり出てきて、僕には対抗する話は何一つないことに落胆する反面、ということは普通の感覚で料理ができてるということだと気づいた。

僕は玉ねぎをみじん切りにしてしまう癖について話した。
カレーだろうと肉じゃがだろうとシチューだろうと、玉ねぎは全てみじん切りにしてしまう習性がある。彼女にカレーを振舞ったのが20回を超えたあたりで「そういえばなんで玉ねぎはいつもみじん切りなの?」と聞かれたのだった。
自分では全く気がついていなかった。料理の工程において一番好きなのはつまみ食い、二番目は切る作業だったから、興が乗って包丁を握り続けてしまうきらいがあった。たぶんそのせいで、玉ねぎを目の敵のように細かく切ってしまうのだろう思った。

バターチキンカレーのレトルトパックが美味しいとのことで紹介をしてもらい、その後は美味しいカレーを食べられるカフェを教えてくれた。
僕も行ったことのある、スパイスカレーのお店だった。ルーの上に葉っぱが浮いている特徴的な見た目をしていて、内側から汗をかくような、夏に食べたくなるカレーだった。

どうやらカフェ巡りが趣味のようだった。僕も同じだった。
少し古びれた喫茶店の方が肌馴染みがいいようで、新しいお店に見られるような、白い壁にお洒落な電灯、見たことのないスイーツが出てくるところは苦手なようだった。僕も落ち着くのはそういった焦げ茶色っぽいところなので気持ちはよく分かった。
それに、新しくできた店にはなんとなく入りにくい気持ちがある。
若者が集って写真を撮っているようなお店は変に緊張してしまう。こちらにカメラのレンズが向いてる訳ではないのだが、カフェの一部として見られているような、レイアウトの一つとして機能させられているような、謎の圧迫感がある気がしてしまう。結局訪れはするのだけれど、長居する気にはなかなかなれない。

カフェで何をしているのか聞かれたので読書だと応えると、どんな本を読んでいるのか尋ねられた。僕の印象は文豪を読んでいそうな奴、とのことだった。今現在、夏目漱石を読んでいるから、当たらずとも遠からずだけれど、僕は基本的に雑食だからなんでも読みます、当たり障りのないところだと穂村弘のエッセイとかです、と言った。
ベッドの上でスティックパンを食べてそのまま昼寝をして起きた時に、食べかけのスティックパンの袋の口が空いててうんざりする、みたいなエッセイだと説明した。

すると、安心しましたーと言われた。
私もカフェとか電車で本を読むんだけど、なんでもない日常のエッセイみたいな軽い本ばっかりで、浮いてないかなって思ってたんですー。お店で本読む人って真面目な顔してるじゃないですかー。だから難しい本ばっかり読んでるもんだと思ってたけど、そういう本を読んでる人もいるって思ったら安心だし、真面目な顔してそういうの読んでるのって面白いじゃないですか?
とのことだった。着眼点がいい。言葉を受け入れてから出力までのもっていき方が軽いのに、妙な納得感があるなと思った。

おすすめの本を何冊か教えてもらった。人柄によく似た本を読んでいた。普段は物静かなタイプなんだろうというのが何となく見える選書だった。
そこからはいい店を知っている男の人にキュンとするとか、信じられないくらい美味しい寿司屋とか、夏限定の美味しいビール、ニセコに売ってる水みたいな日本酒、子供の頃に作った秘密基地など、いろんな話をした。

今回も素晴らしい接客だった。僕も接客を生業にする端くれとして、盗める部分はいくつかあったので、カット代だけを払えばいいというのは安すぎるくらいだった。身の回りにはいくらでも学びが転がっているようだった。
今回は110分かかった。
またカットをお願いしようと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?