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4月22日「シェルティ」

昨日から続くしっとりとした空気が肌を撫でた。なんとか耐えてきた曇り模様も、今日はついに耐えきれず雨になる予報だったので、念のため傘を持って出勤した。
最近は自転車で通勤していたから、職場まで徒歩で向かうのは久々のように感じた。時間はかかるけれど、歩いていると目に着くものが増えるので嫌ではなかった。

白黒のシェルティが散歩をしていた。たくましい胸毛が風に揺れており、賢そうな目で短い足の行く末を見つめながら、散歩を楽しんでいるように見えた。
僕の彼女は、僕と出会う前までシェルティを飼っていたので、犬に明るくない僕でも珍しく覚えた犬種だった。
もともと牧羊犬として飼われていたシェルティは、散歩で見たような明晰な犬なのだけれど、彼女のシェルティは何故かあほっぽいのでそこが可愛い。

秋も深まると枯れた葉っぱが赤絨毯のように道の隅に集められていて、その上を彼女のシェルティは喜んで歩く。しゃりしゃりと鳴るのが楽しいらしい。子供がカーペットとフローリングを行き来して、足の感触の違いを確かめるのとよく似ている。
ご飯の時になると「お腹すきましたけども?」というキラキラした瞳で、胸毛によだれをたらしながら、キッチンの母親の足元にすんっと寄ってきた。野菜を一切れもらって「あざます」という顔をして、玄関のフローリングに寝っ転がる。

分厚い毛の中に熱が溜まってしまって暑いのか、そこでペタッと横になり身体を冷やすのが好きだったらしい。冷たい床が冷えピタがわりだったのだろう。
実物は一目も見たことがないけれど、彼女の愛が強いがゆえに、飼っていた頃の写真や動画をたくさん見せてくれたから、姿形はよく知っていた。それにたくさん思い出話もしてくれるので、いろんなことを知っている。
叶わぬ願いだが一度でいいから会ってみたかった。お気に入りのパンダのボールで遊んでみたかったが、今ごろ空の上で、虹の橋の感触を楽しんでいるだろう。

散歩中のシェルティは角を曲がって見えなくなり、僕の行手の左側にはかつて公園だったものが見えた。少し前から外周にフェンスを張られ、遊具の撤去が行われているようだった。
僕にとって思い入れのない公園だった。仕事帰りに近くのセブンイレブンでスミノフを買い、東家のベンチでPEACEを吸いながら、悩み事の電話を受けた程度の過去しかない。子供たちの思い入れと比べればゼロに収束しているようなものだった。

そういえば、昔遊んだ公園の遊具が入れ替わり始めてからどれくらい経っただろう。大学時代からだとするなら、もう十年近くも時が過ぎているのだから、全てが変化していてもおかしくない。
ペンキの塗りが甘い鉄製の枠組みをしていた無骨な遊具が、もう少し柔らかい素材の、どう遊べばいいかわからないものに変わっていく様は切なかった。勢い余って手のひらを火傷した登り棒や、二メートル近くの急斜面を登らせる太い綱はもうなくなったろうか。

思い返せば怪我ばかりしていた。僕らの時代の遊具は安全とは言い切れなかった。遊具同士を空中で結ぶトンネルの上ではしゃぎ回り、結構な高さから落下してケロッとしたりしていたが、今覚えば危険でしかない遊具だった。いや、遊び方を間違えているのか。
まあ、でも、ともかく、安全になるというのは良いことだった。僕の感傷のために今の子供達が怪我を負ってしまうくらいなら、思い出を殺してでも安全にするべきだろうと思った。

自分たちの人生から退場して欲しくないものは結構あるな、と思った。自然の摂理として、もしくは機能性の重視のため、入れ替わったり全くなくなってしまうことは悲しい。
歳を取ってきたなと思った。何気ないお別れと折り合いを付けるのが上手になってきたのがその証拠に思えた。
徒歩通勤のせいでセンチメントな気持ちになってしまった。帰りは雨が降っていないといいのだが。

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