見出し画像

6月25日「夢の中へ」

むせかえるような暑さだった。昨日は大荒れを二乗したような天気だったのに、打って変わって、まぶしい水色に湯葉みたいなうすい雲が張り付いている。夏を思わせる天候だった。
昼を過ぎると三十度近くまで気温が上がるらしい。ピクニックや海にでも赴きたいけれど、そこに彩りを添える仕事を生業にしているせいで、屋内で過ごし続けることになった。

夏の足音が聞こえたおかげなのか、来る客はみんな浮き足立っているように見えた。今日は暑いですね、と何回口にしたのか分からない。
明日も暑くなるみたいだよ、と教えられ少しだけうんざりとした。夏に遅れを取ってしまうのは不本意だった。
サービス業は基本的に、世間の楽しい時期に忙しくなるのが通例だった。年末年始やゴールデンウィーク、お盆や夏休み。僕らの屍の上にみんなの笑顔が立っている様子を想像すると、骸の腕を伸ばして引きずり込みたくもなるけれど、まあ、その笑顔を見れるのなら十分満足だなとも思った。

人の笑顔を見るのも、自分が笑顔になるのも、どちらも同じくらい好きだった。ハッピーがあればなんとなくやっていける気がする。
保険とか市民税とか年金とか津々浦々のけったいな面倒ごとも、ハッピーで包めばなんとかなる気がする。面倒だけれど。生きているという証拠を金で買っていると思えばそれで良いんじゃない?
ハッピーっていうのは楽天的に無視することではなくて、明るく捉えてあげることです。言い換えれば「そう思わなきゃやってられない」ってところだろうか。

仕事を終えて何か聴きながら帰ろうとスマホをいじっていると、最近読んだ沢木耕太郎のエッセイを思い出した。井上陽水についての文章だった。
兼ねてから二人の付き合いはあったらしい。曲作りに行き詰まった井上陽水が沢木耕太郎に電話で「曲を締めるために必要な気がするから、宮沢賢治の雨ニモマケズの詩を教えて欲しい」と頼んだ。
ところが沢木、冒頭から先がなかなか思い出せない。一度電話を置いて何とか詩集をゲットし、再度連絡を取って陽水に読み聞かせた。そうして出来上がったのが『ワカンナイ』という曲とのことだった。

なんだか凄い話だったので頭に残っていた。
そして曲を選ぶ僕の周りの空気は圧倒的に夏だった。ということは、少年時代がフィットしそうだな、と思って流し始めた。

夏が過ぎ風あざみ
誰の憧れにさまよう
青空に残された
私の心は夏模様
井上陽水『少年時代』

良すぎた。
何だかよく分からない歌詞なのだけれど不思議な抒情性があって、僕にしか分からない少年時代の景色が風のように通り過ぎた。声もいいし、メロディもいい。これが一人の人間から完成されたというのは、末恐ろしいというか、才能が有り余るというか、とにかく名曲だと思った。
しかも歳を重ねるごとに良くなっていく。少年時代が遠い昔のことになったからなのだろう。
小さい頃に「ぼくのなつやすみ」をプレステでプレイしてもなんとも思わなかったけれど、いまはもの凄く遊んでみたいと思っているように、少年や夏休みからの心情的距離が離れれば離れるだけ、心に響いていく類のものなのだろうと思った。過去をむりやりほじくり返すパワーが潜んでいるようだった。

「リバーサイドホテル」や「夢の中へ」を聴きながら、少し離れたTSUTAYAに向かった。繁華街予備軍的な街の外れにある平凡なサイズのTSUTAYAだった。

今年は積ん読をなるべく消費していこうと意気込み、半年かけて二十冊ほど読んだところで、そろそろ新しいものも手に入れたいと思って来たのだった。
思えば、ここ半年で一冊しか購入していない。これは奇跡みたいなことだった。読んでない本が大量にあるのに幾度も手を伸ばして来た蒐集家まがいの僕にとって、本を買わなくなるというのは、アルコール依存者が酒を辞めるくらいの一大事に思えた。

とは言え、本棚に読んでいない本が溜まり過ぎて、簡易的な本屋さんが部屋の角に出現したことを思うと、流石に歯止めを効かさなければならないと意気込んだ結果だった。ご褒美として買い足してもバチは当たらんだろう。
そう思ったけれども、欲しい本が一冊もなかった。品揃えの問題だった。
草むらから獲物を狙うパンサーのように、欲しい本には目を光らせてメモっていたのに、ただの一冊も見つからなくてため息がこぼれた。読んだ本と読む気の出ない本と読もうという気にならない本が並んでいた。バチが当たったようだった。

結局、一円も使わずにTSUTAYAを後にした。川沿いの帰路を、やはり井上陽水は素晴らしい、と思いながら進んだ。
音楽を聴くための遠回りをしたのだと自分を慰めた。そう思わなきゃやってられない、いや、ハッピーだ、と言い聞かせながら帰った。

探し物はなんですか?
見つけにくいものですか?
鞄の中も 机の中も
探したけれど見つからないのに

まだまだ探す気ですか?
それより僕と踊りませんか?
夢の中へ 夢の中へ
行ってみたいと思いませんか?
井上陽水『夢の中へ』

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?