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天国の高橋っちと、私たちの物語。


2023.3.15


これは私が大学4年生の時(2020年の夏)に書いて、下書きにしまっていた文章です。約3年が経ち、今なら公開できると思ったので、ほとんど当時書いたまま公開します。

私の人生、いや、私たち家族を語るときに欠かすことの出来ない人物「高橋っち」についての物語りです。(6000字越えの大作です。)



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高橋っちは神奈川県の大和に住んでいた。昨年の夏に癌で亡くなった。60代だった。10年以上も一緒にいたが、正確な年齢を私は知らない。

高橋っちが亡くなった時、大学3年生の私はケニアの田舎にいた。農業系のソーシャルベンチャー企業でインターンとして働いていた。農家でサツマイモの買い取り作業をしていた時に、日本にいる母から電話があった。「高橋っちが息を引き取った」という知らせだった。緊急帰国して出席したお葬式で、最後に棺の蓋が閉められる瞬間、過呼吸になるんじゃないかというほど号泣した。


あれから1年が経った。お葬式の次の日にはケニアに飛んで平然と仕事に戻ったし、それから今日までの1年間、高橋っちを思い出して泣いたことは一度もない。

それなのに、いやだからこそ、高橋っちのことを書きたくなった。高橋っちという人が生きていて、彼のお陰で今の私がいるという事実を、目に見える形で残しておかなければいけないと思った。そして、私をよく知る人達と未来の私自身に読んで欲しい。何かを感じて欲しいわけでも、伝えたいわけでもない。ただ高橋っちのことを知ってくれればそれでいい。そうすることで私は、1年間一度も泣かなかったことの罪悪感を晴らしたいだけかもしれない。そうだとしても、少しでも何かが報われる気がするから、やっぱり書きたいと思う。


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高橋っちは、私が小学5年生の時に私の日常に突然現れた。母の職場のおじさん。当時母はパートで某銀行に勤めており、高橋っちは正社員、つまり銀行員。ずっと独身だった彼は、週末になるとミニカーみたいに小さな車で大和から横浜まで遥々やってきて、ブドウとか、苺とかを届けてくれた。私も妹も、初めは車の窓越しに会話…というより挨拶をするだけだった。


すぐに、私達(母・私・妹。6つ上の姉は当時高校生で友達と遊んでいた)と高橋っちは週末に出掛けるようになった。初めは近所のレストラン、次第に千葉の海や横浜の山手町に遠出するようになり、山梨の河口湖へ日帰り旅行にも行った。

当時、サイゼリアでの外食が半年に1回の贅沢だった我が家。高橋っちとのお出かけや外食は、私たち家族の日常に彩りを与えてくれた。私が中学生になっても、4人でのお出かけは続いた。

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毎年10月になると高島屋のクリスマスケーキのカタログをがうちに届いた。私たちは家族会議を開いて、好きなケーキを1つ選び高橋っちに「○○番のケーキ」とメールする。クリスマスイブの朝いちばん、高橋っちは横浜高島屋で私たちが選んだケーキを受け取り、届けてくれた。

でもそれだけで、高橋っちは我が家のクリスマスパーティには参加しなかった。中学生の私にとって、「クリスマスパーティーは家族でやるもの」。どんなに週末を一緒に過ごす高橋っちでも、クリスマスパーティーに参加することは許しちゃいけない、固いボーダーだった。それを許したら、お父さんになることを許したと思われそうだったから。母に「今年のパーティーは、高橋っち呼ぶ?」と聞かれても、「ううん」と一言で答えた。母は「わかった」と笑顔でうなずき、それ以上何も言わなかったし、高橋っちも相変わらずケーキだけを届けてくれた。

中学3年生、私が第一志望だった高校に合格すると、お祝いで美味しい焼肉屋さんに連れて行ってくれた。外食で焼肉なんて…贅沢で美味しくて嬉しくて、人生で最も幸せだった瞬間ランキングTOP5に、今でも入る。

4人でお祝いでディズニーランドにも行った。私と妹にお土産用としてそれぞれ5000円をくれた。今考えてもなかなかの大金だ。嬉しくてうれしくて、1時間以上かけてお土産を選んだ。その時に買った白雪姫のクリアファイルは、今でも使っている。

家族でディスに―ランドに行くのは、両親が離婚する前の小学校3年生の時ぶりで、本当に幸せだった。

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高校2年生の夏、私が大学受験をしたいと言った時、高橋っちは「夢ある若者はいいなぁ。愛ちゃんは勉強ができて、僕は羨ましいよ。」と言って応援してくれた。高額の河合塾代を全て出してくれた。それを無駄にしまい!と私は必死で勉強し、河合塾の校舎の高校3年生約1000人の中でTOP10の成績を模試でたたき出した。


私が首都大学東京と早稲田大学に合格した時、私は早稲田の方に行きたかった。でも年間の学費は首都大の倍だった。高橋っちは私を近所の不二家に誘い、話し合いを行った。「将来必ず全額返す。バイトも頑張って在学中から少しずつ返す。だから早稲田の学費を出して欲しい。」と頭を下げた。

結局高橋っちは納得してくれなかった。「本を読むのも、芸術に触れるのも、何をするのもお金はいるんだよ。愛ちゃんを豊かにしてくれるものに、お金を使って欲しい。」全然納得が出来ず不本意のまま入学した首都大も、今度の3月に卒業する。

ズボラだから本にも芸術にもお金は使わなかったけど、確かに、バイトに追われることなく好きなことに没頭できた4年間だったから、高橋っちは正しかった。

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大学1年生の夏休み、私はシドニーに語学留学をした。高校生の時にバイトで貯めた40万円を全部使って。ほぼ初めての海外だった。帰国して写真を見せると、高橋っちは「ホームステイしていたお家の中とか、学校の普段の様子の写真はないの?」の聞いてきた。「私そういう日常的なものはいちいち写真に撮らないタイプなんだよね~」というと、「僕はそういうのが一番見たいのになあ」と笑いながら、それでもブルーマウンテンズの絶景や友達との自撮り写真を、面白そうに何度も何度も見ていた。

高橋っちが亡くなった後にお部屋を訪れた時、私がシドニーから送った絵葉書が大切そうに封筒に包まれて出てきた。


大学1年の秋、私が今度は1年間の長期留学に行きたいというと、高橋っちは「どんどん遠くにいっちゃうなあ、愛ちゃん」と笑いながら、やっぱり応援してくれた。ロンドンでの生活費は高くて、奨学金だけじゃ足りなくなる可能性を踏まえて、多額のお金を貸してくれたのも、高橋っちだった。

「お金を借りることは、簡単なことじゃないんだよ。」と、借用書を作るように私に言った。私のためを思ったあえての厳しさであることは痛いほどわかったし、お金を貸してもらえることに感謝の気持ちで一杯だったけど、「親子だったらこんな紙必要ないんだろうな」と思うと悲しくなって、大学のキャンパスで静かに泣いた。泣きながら、「こんな贅沢な涙流すべきじゃないよな、感謝だけでいいのに」と自分にイラついた。

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無事にロンドンとケニアへの1年間の留学が決まった。出発の約半年前、高橋っちに癌が見つかった。入院と退院を繰り返すようになった。大きな手術も何度かした。でも留学を数ヶ月後に控えた私は、留学前の「最後の時間」を友達と過ごすのに忙しくて、自宅から1時間しかかからない大和の病院には全く顔を見せなかった。

いよいよ出発を数週間後に控えた真夏日、「1年間も離れるのだから挨拶くらいするか」と、重い腰を上げた。病院で久しぶりに会った高橋っちは痩せていて、人工の膀胱をぶら下げて、点滴の棒につかまりながら歩いていた。でも普通に話して普通に笑っていた。分厚い本を手に持って、大好きな読書を続けられるくらいには、普通に生きていた。


「すぐ退院出来るといいね。私も留学頑張るからさ。また、一年後ね。お大事に。」


病院から最寄り駅への帰り道、あまりの暑さに、15分の道が1時間くらいに思えた。高橋っちとの会話の内容より、暑すぎた帰り道の記憶の方がよっぽど鮮明に残っている。そのくらい、軽い気持ちで会いに行って、軽い気持ちでお別れした。それが「最後」になるなんて思わなかったから。


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ロンドン留学中は、寮の部屋やいつもの帰り道、全然映えない食事など、なんでもかんでも写真に撮った。ケニアでも、土に穴を掘ったぼっとんトイレとか、川での洗濯の様子、トウモロコシ一本だけの朝ごはんまで、ぜんぶ写真に撮った。そういうのが見たいって、1年前に高橋っちが言ったから。


スマホを持っていないおじさんだから、帰国したらスライドショーにまとめて説明しながら見せてあげようと思ってた。だから、一枚の写真も、一通の手紙もメールも送っていなかった。

ケニアから駆け付けたお葬式で眠っている高橋っちを見て、「あと1か月待ってくれたら帰国したのに。日常の写真、たくさん撮ったのに。」って思った。「いつか」なんて言って恩返しのタイミングを先延ばしにしていいほど、命って当たり前じゃないんだなとも思った。お葬式の帰り道、写真屋さんで、ロンドンやケニアの写真を焼き増しして大阪に住むおばあちゃんに送った。


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私は、高橋っちが私や妹に対してどんな気持ちを持っていたのか、知っていた。「お父さんになりたい」って思っていたことを、中学生の頃には知っていて、でも知らないふりをして10年間過ごしてきた。自分たちのことよりも、私と妹を第一に考えてくれた母と高橋っちのおかげで、私は知らないふりをし続けられたし、高橋っちがお父さんになることはなかった。


それに、高橋っちがなぜ金銭的に私の学業を応援してくれるのかも知っていた。「本当の娘のように思っているから」だってことを、知っていたけど、知らないふりをしてきた。「私が頑張っているから、若者の未来を応援する”あしながおじさん”のような気持ちで、お金を出してくれてるんだろうな」って。でも本当は、誰に対しても寄付をするようなあしながおじさんではないことなんて、分かっていた。


高橋っちはお父さんではないし、私たちは「家族」にはなれない。理由は上手く説明できないけど、私の心がそう大きな声言っていた。

そのことが。高橋っちの本当の気持ちとちゃんと向き合うことが。そして結局、高橋っちの気持ちに応えられないことが。ずっと怖かった。


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高橋っちが亡くなって1年が経って、私は最近、パソコン販売の仕事を始めた。パソコンのリユース事業を通して日本に住む難民に雇用を生み出すという目的に共感して始めた仕事。郊外のショッピングモールに期間限定店を出して、パソコンを売りに行く。


初めて入った催事場は、まさかのイオンモール大和だった。高橋っちと最後に会った場所、高橋っちが最後に息を引き取ったあの病院に隣接するイオンモールだったのだ。

何も感じないように、努めた。ここは高橋っちが暮らしていた町だ。高橋っちが足しげく通っていたイオンモールだ。そんなことを想像してしまったら、仕事どころではなくなりそうだった。だから意識的に、大和の町から高橋っちの影を消して仕事に集中した。


販売の初日、無事にパソコンを売ることが出来て達成感に溢れた帰り道、最寄り駅までの帰り道。最後に高橋っちと会った酷暑の日と、同じ帰り道を歩いてた。「あの時の道だ」と、頭の片隅ではわかっていたけど、わかっていないふりをして、初日の達成感に浸った。


私にとって、高橋っちを思い出さないことは簡単なのだ。ふっと現れそうになった影を消し去って気づかないふりをするのも、意識すれば簡単にできてしまう。10年間も一緒にいた人がこの世から消えたのに、平気な顔をして日常を生きることって、私にとっては本当に簡単なんだ。逆に、時折り急に高橋っちのことを思い出して号泣する母を見ると、自分が薄情者に思える。

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数日後、同じイオンモールで販売の日、たまたま見つけてしまった。私たちがパソコンを売っている催事場の裏にある、「ベルべ」というパン屋を。ピンクの袋、ピンクの看板‥‥高橋っちがいつも手にぶら下げていた袋の色とロゴがそこにあった。

高橋っちが週末にうちに来るときはいつも、ケーキや果物などのお土産を持ってきてくれたのだが、中でも私たちの一番のお気に入りが「ベルべ」のパンだった。特にミルクフランス。パンが柔らかくてクリームの甘さが絶妙で、本当に美味しいのだ。

「ああ、うちに来る前ここでパンを買っていたのか。」

初日の時とは違って、私はじっと目を凝らし、そこに高橋っちの影を見ようとした。すると、私たちの人数分のミルクフランスと、いくつかのお総菜パンをトレーにいれている高橋っちの姿が、簡単に目の前に現れた。余所行きの時に着る茶色のカジュアルスーツを着て、同じく茶色のハットを被っていた。

「ということは多分、うちでみんなでパンを食べた後に、美術館かジャズバー、それか仲町台のえのきていレストランにみんなで出かける。今日はそんなコースなんだろうな…。」

美食家で多趣味な高橋っちは、私たちを色々なおしゃれな場所に連れて行ってくれたのだ。

高橋っちは確かにここに生きていた。1年半前は実際にここでミルクフランスをトレーに入れていたんだ、という事実を噛み締めた。

その日は代わりに私がミルクフランスを買って帰った。イオンモールから最寄り駅までの帰り道。家族の人数分のミルクフランスが入ったピンクの袋を持って歩きながら、あの日のことを思い出した。「暑い、まじで暑すぎる」それしか考えずに、この道を歩いていたあの日の自分を思い出すことに努めながら、歩いた。

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ここまでたくさん助けてもらった分、恩返しのためにしっかり頑張ろう、などと立派なことを思ったことはない。もっとちゃんと感謝を伝えておけばよかったと後悔したのも、お葬式が最後。繰り返すが、高橋っちを思い出して泣いたこともない。そんな自分に、「なんで?」と聞いても、答えはよくわからない。

分かるのは、高橋っちと私たちが10年間一緒に過ごしたということ。高橋っちは60数年という人生の最後の時間を私たち家族と過ごした。そうすることを彼が選んだし、私たちも選んだ。だから、家族ではなかったけれど、10年という長い時間を一緒に過ごした。

そして、私は小学生の時から20歳になるまで、高橋っちにたくさん助けられ、支えられた。「育ててもらった」というのは少し違う気がする。「一緒にいてくれて、たくさん助けてもらって、支えてもらった」。そのお陰で今の私がある。

一番はじめに、この文章で誰に何を伝えたいでもない。ただ、この物語を、残しておきたかった。と書いた。

書き終えてみて、なぜこれを書きたかったのかが分かった。これが、私の素直な気持ちで出来る、高橋っちへの「ありがとう」の伝え方だったんだ。


涙は出ないけど、とても素直に思う。
「高橋っち、ありがとう。私、がんばるから見ててね。また、会おうね。」

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ちなみに、彼の苗字はもちろん「高橋」。「高橋っち」というのは、仲良くなるにつれて「高橋さん」と呼ぶのが恥ずかしくなった小学生の私か妹がつけたあだ名だ。「たまごっちみたいで可愛いじゃん!」とか言って。笑  確か彼はすぐに「高橋っち」と呼ばれることに適応した。


そして、彼のフルネームでもなく、「高橋さん」でもなく、「高橋っち」は、今でも私たちの会話の中で生きている。

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