見出し画像

記憶について



最近、いろいろなヨガのクラスに通っている。

今日受けたのは「ディープリラクゼーションヨガ」というクラス。ほとんど身体は動かさず、寝た状態に少し捻りを加えた様々なポーズをとるのだが、一つのポーズに5分以上留まってとにかく身体の感覚に意識を集中させるというものだった。

頭は半分寝てるくらいのぼんやりとした感覚で、どんどんリラックス状態に入っていった。すると途中、不思議なことに色々な「懐かしい景色」が頭に浮かんできた。地元横浜の元実家の近くの坂道とか、2年前仕事でよく通っていた福岡市西区の住宅街とか。胸がキューンとなる。先生の声がけで意識が他に飛んでいたことに気がつき、身体の感覚の観察することに再度意識を戻す。

それにしても、何のトリガーもなく長いこと忘れていた情景がふと思い浮かぶなんて不思議だなぁと思う。普段脳はたくさんの外部刺激を処理するので忙しいけれど、何の刺激もなく空っぽでぼんやりした状態になると、奥深くに眠ってる記憶がポヤァって呼び起こされるのかもしれない。

こんな風に昔の記憶を急に思い出した時はいつも「この記憶を思い出せるのが、これが最後だったらどうしよう」と、少し怖くなる。特にもうこの世にいない人と関連付いた記憶の場合、自分が二度とこれを思い出せないかもしれないと思うと本当に怖い。例えば友達5人で遊びに行った記憶であれば、私が忘れても、また5人で集まった時に4人のうち誰かが思い出して話してくれれば、記憶は鮮やかに蘇る。だけど、私と亡くなった母の4年前の会話の記憶は、私が忘れてしまえばもう完全に消えてしまう。そんなの悲しすぎるから、母や家族に関する過去の記憶を思い出した時には出来るだけメモに書き留めるようにしている。だけどそれが面倒な時や、書き止めようとスマホを開いた数秒の間に忘れてしまう時もある。そんな時は、今日起こったみたいに、きっとまたランダムに思い出せるはずだ、それがたとえ10年後であっても、と期待して諦める。

さらに言えば、自分一人で過ごした時間の記憶は、自分が覚えておくかどこかに書き留めておかない限りどんどん忘れてしまいそうで切ない。休職をし始めて7ヶ月が経ったが、この期間色んな人に助けてもらいながらも、結局一人で過ごす時間がものすごく長く、その時間で色んなことを感じ、考えた。人生の意味とか、生と死についてとか、幸せってなんだとか、これからどう生きていきたいかとか。休職前半は心身の調子が悪すぎるし脳も働かないので何も考えてなかったが、どん底を抜けた時からは色々考えた。ある程度元気で、暇になると人間は哲学しだすっぽい。そしてこの哲学できた時間がすごく貴重だったと感じる。立ち止まる時間の素晴らしさは、立ち止まったことのない人にはきっと腹の底からは分からない。無理して走り続けていた過去の自分は、”立ち止まること=レースの舞台から降りること”のように感じていて、一度降りたら二度と戻れないんじゃないか、”弱い自分”になっちゃうんじゃないかと、怖かった。だけど真逆だった。哲学できちゃうほど暇で豊かな時間の中で(もちろん苦しい日も多いがそれも含めて豊かなのだ)、以前の自分より格段に”強い自分”になった感覚がある。

そんな一人での日々を忘れたくなくて、記録に残したくて、2ヶ月前にひっそりラジオを始めた。喋る方が書くよりも楽だから。stand.fmというプラットフォームで、誰でも簡単に始められる。何を主張したいでもない、「表現したい」という欲求とも違う、ただ見たもの、読んだもの、感じたこと、考えたことを「記録に残したい」という時はラジオに向かって一人で喋っている。誰のためでもなく自分の記録用に喋っているラジオだけど意外に聞いてくれる人がいて、総再生回数は700回を超えた。同じように休職している人とも繋がって、コメントし合ったりしてる。彼の休職ライフの日常を聴くのも好きだ。別に喋りが上手いわけでもなく、チャンネルにコンセプトもターゲットも無い。ただ彼が「今日は久しぶりに朝散歩ができた」とか、「退職するか休職延長するか迷ってる」というのを、ゆっくりした口調で喋っている。どこに住んでるかも本名も年齢も知らないけれど、彼が悩みながらも人生を一生懸命に生きてるのが伝わってきて、お互い頑張りましょうねという気持ちになる。

ラジオの難点は、家にいないと収録できないこと。外だと雑音が入るし、リラックスして喋ることができない。でも外にいる時に「記録したい!」という欲求に急に駆られる時がある。そんな時は書くのが良い。今がまさにそれだった。ヨガのクラスが昼の1時過ぎに終わり、ヨガスタジオの周りを散歩していたら小さなカフェを見つけたので入ったら、ほぼ貸切状態だった。周りの音に敏感すぎてすぐ集中力が途切れる私は、普段カフェではイヤホンで音楽をガンガンにかけているのだが、そうするとカフェに流れるBGMが楽しめなくて勿体無い。今日はイヤホンを付けず、BGMとコーヒースタンドから聴こえる音を楽しみながら読書できた。とても気持ちよかった。目の前の席では、外国人の男性が外を見つめながらエスプレッソの香りを堪能してる。この1週間読んでいた本をちょうど読み終えてボーッとしていたら、あー今日も平和で幸せだなーと思い「記録したい!」衝動に駆られた。喋れないのでnoteを開いた。

こんな静かで穏やかな日々って、きっとこの忙しない社会の中では全然当たり前じゃない。今の時間の流れ方がいかに幸福なものなのか、仕事に復帰したら思い知るのだろう。そんな、特に派手な出来事はないけれど忘れるのはちょっと勿体無い日々を、これからも記録に残していきたいなと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?